亡弟
中原中也

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此の先《さき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)猶|一縷《いちる》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+俘のつくり」、第4水準2−85−37]腫《はれもの》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ホラ/\と
−−

 ああ、もう、死んでしまはうか……
 自分の正直さが、といふよりも歌ひたい欲望が、といふよりも酔つてゐたい性情が、強ければ強いだけ、〈頭を上げれば叩かれる〉此の世の中では、損を来たすこととなり、損も今では積り積つて、此の先《さき》生活のあてもなくなりさうになつてゐることを思ふと、死んでしまはうかと思ふより、ほかに仕方もないことであつた。
『どうせ死ぬのなら、僕は戦争に行つて死ぬのならよかつた』と、病床の中から母に語つたといふ、一昨年死んだ弟のことを思ひ出しては、いとほしくて、涙が流れるのであつた。――苦しい受験生活の後で、漸く入学が出来たかと思へば、その年の秋から床に就き、どやどやつと病状が進んで、もう百中九十九迄助からないことが事実になつたのだと思つた弟が、母にさう云つた時には恐らく、私なぞの未だ知らない真実があつたに相違ない。
 弟は、母にだけさう云つたのだし、母も亦弟が死んでしまつてからさう云つたと語つてきかせた。聞いた時には一寸、何故生きてゐるうちに話して呉れなかつたのかと、怨めしい気持がしたが、俯いてゐる母をジツと見てゐると、生きてゐるうちには語りたくなかつたのだと分つた。
 死ぬが死ぬまで、大概の人間が、死ぬのだとは信じ切れないのでこそ、人は生きてゆく所以《ゆゑん》でもあるのだが、母も亦私も、祖母も亦他の弟達も、死ぬが死ぬまで、死ぬだらうと思ひながらも死ぬのだとは思つてゐなかつたので、いよいよ死んでしまつた時には、悲しみよりもまづ、ホーラ、ホラ/\と、ギヨツとして顔を見合せるといつた気持が湧起つたのだつた。
 秋床に就き、東京の病院に翌年三月迄ゐて、郷里に帰つた。そしてその年の十月二十三日には、不帰の客となつたのだつたが、私は八月初めに帰り、九月八日迄弟の傍にゐた。死ぬにしてもそんなに早く死ぬとは思つてゐなかつたし、案外癒るのだらうとさへ思つてゐた私は、『尿器をとつてくれ』といふ弟の声が、余りにも弱々しい時には腹さへ立てた。
 医者が来ると、母を出して、私は弟の部屋から引込むのであつたが、或る日私は、自分の耳の下の二分ばかり小高くなつた※[#「月+俘のつくり」、第4水準2−85−37]腫《はれもの》を診察して貰はうと思つたので、弟の寝てゐる部屋に出て行つた。
 弟は、私が現れると、私を見て、それから医者の顔を見た。私の下手な挨拶、それでも父のゐない家では、私が戸主なのだから、それに偶《たま》にしか帰つて来ない田舎のことだし、私自身は不評判な息子なのだからと思ふと、せいぜい世俗的な丁寧さをもつてくる私の挨拶を見て、弟はあてが外《はづ》れたといふ顔をしてゐたし、私自身も一寸恥しくなつた。
 医者は弟から二尺位離れた位置に、聴診器をあてるでもなく、何をするでもなく、坐つて弟を時々視守つてゐた。私はあとで知つたことだが、医者はもう到底駄目だと前々から思つてゐたので、毎日やつて来ては、三十分なり一時間なり、さうして弟の相手になつてやつてゐるのだつた。
 ヂツと医者が弟を視ると、弟は直ぐにその次には、私の顔を見るのであつた。その眼は澄みきつて、レンズのやうで、むしろ生き物のものといふよりは器物《きぶつ》のやうであつた。縁側に吊した金魚鉢か何かのやうに、毀《こは》れ易く、庭の緑を映してゐるやうなものであつた。これが自分の弟であらうかと、時偶そんな気持になる程、その眼は弱々しく、自分の眼との間に、不思議な距離が感じられるのであつた。
 いたいたしいなと思ふと、その次にはもうはやく癒ればいいのにと、思ふのは利己の心であつた。
『もつと気持を大きくもつて、少々努めてでも大きい声を出すやうな気持になれば、案外さつさと癒るのだらうとわたくしは思ひますが』と、私は強ひて笑顔を作りながら、弟の顔を伺ひ/\医者に向つて云つた。
『だつてそんなに云つたつてと弟は、医者の顔をチラと見て、私に云つた。『そんな気持になれないのだから仕方がない……』と云つた弟の眼には涙が滲《にじ》んでゐた。悪かつたと私が思つてゐると、
『いいえいいえ、昂奮なすつちや不可《いけ》ません。昂奮なすつちや不可ません』と、私に背を向けたまゝ、医者は弟を宥《なだ》めすかしてゐるのであつた。
 私と弟との間に暫らく、緊張
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中原 中也 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング