うな恰好で、事実なのだ、これは事実なのだと、声もなく呟いてゐるのであつた。
時計をみた。十一時二十分であつた。もう汽車はない。明日一番で立たう。
だがなあ……と悲しい心の隅にはまた、へんに閑のある心があつて、こんなことをも思つてみるのであつた。死んでから急いだつてなんにならう……だがこんなことを考へるのも可笑《おか》しい、うん、可笑しい。それにしても、――私はまた更《あらた》めて思ふのであつた、弟は既に旅立つてゐる。弟はもう此の世のものではないのである!――私は眼を遠くに向けた。硝子障子の向ふには雨戸があつた。もう閉めてゐたのであつた。柱も壁も、何時もどほりであつた、そしてそれはさうであるに違ひなかつた。
私は同宿人のゐないことが、つまり六畳と三畳二間きりのその二階が私一人のものであることが、どんなに嬉しかつたか知れはしない。存分に悲しむために、私は寝台にもぐつて、頭から毛布をヒツかぶつた。息がつまりさうであつた。が、それがなんであらう、私がビールを飲んでゐる時、弟は最期の苦しみを戦つてゐた!
火葬《やき》場からの帰途、それは薄曇りの日であつたが、白つぽい道の上を歩きながら、死んだ弟の次の弟が、訊かれたでもないのに、フト語り始めるのであつた。『泰ちやんは、大きな声で色んなことを云ひ出したよ。医者の奴は、脳にまゐりましたと云つたよ。それから、直ぐに麻痺させる注射をした。……だがあの時は、大きい声で云つたことは、泰ちやんの気象を全く現はしてゐたよ。』『あれあ実際……脳に来たのでもなんでもなかつたんだよ。』とその一つ下の弟は続けて、そつぽを向くのであつた。
『大きい声で何を云つたんだい。』
『それあ』と云つて上の弟は、一寸どれから云はうかとしたのであつた。云へるものか、併し……何か云はう。
『梶川(医者の姓)、おまへは俺を殺す! ……『実際、大きい声だつたよ』と云つて弟は涙をゴマ化すのであつた。
道は少しのデコボコだつたが、私は前々夜来睡眠をとつてゐなかつたので、僅かのデコボコにも足許がフラフラし、頭もフラフラした。冷たい軽い風のある日で、ワイシャツの袖口あたりに、ウブ毛の風に靡くのが感じられるやうなふうであつたことを記憶してゐる。道に沿つたお寺の、白い塀壁の表面のウス黒い埃りや、そこに書いてあつた〈へのへのもへじ〉なぞも、目に留つてゐて離れない。その塀に沿つた、紙や泡《アブク》のヒヨロヒヨロと顫《ふる》へてゐるドブは、それを見ながら歩くことが嫌ではなかつた。
焼香の返礼を、私が如何に大真面目に勤めたかは、今考へると滑稽でもある。
母は、医者の所へは、一番最後にゆつくりと出掛けて行つて、その時はお礼の品も持つて行くのだと吩付《いひつ》けた。『ええ』、とは云つたものの医者の顔をジツクリと思ひ浮べてみるのであつた。
その日が来た。行つたのは午後の四時頃であつた。その日もやつぱり曇つてゐて、十月末の日はもう、医者の玄関に這入ると仄暗かつた。
挨拶をすますと、まあ一寸上らないかと云ふ。『ゆつくり弟さんの話でもしませう。』
偶に帰つて来てゐる、自分の友人(父は生前その医者の友達であつた)の長男は、どんな男だらうかといふ、私に対するイヤな好奇心もあつたのだが、若い患者に、あなたの病気は癒らないのだといふことを何か悟つたことでもあるやうに思つたりする此の田舎医者は、恰度《ちやうど》その時患者もゐなく、夕飯前の時刻を、ボンヤリしてゐたのであつてみれば、上つて話せといふその言葉も、可なり自然なものであつた。私にしてからが数日来の色々のお勤めが、やつと茲で終りを告げるのであつてみれば、此の町に、今は自分の友人とてもない身の、フラフラツと、久しぶりにゆつくり話さうといふ気にもなつたし又、先に此の医者が死んだ弟にあなたは死ぬんだなぞといつた時、ビツクリさせられた印象が、何か此の田舎医者の中に追求してみたいといふ気持を、漠然と抱かせてゐたので、瞬時躊躇はしたものの、よし、では上つてやらうといふ気を起したのであつた。
『では』と云つて、私が背ろの硝子戸を締めると、医者の奥さんは、ニッコリとした。『獲物がかゝつた……』云つてみればさうなのである。
更めてまた哀悼の辞を述べた後、此の医者は、私の東京に於ける生活の模様を、何かと訊くのであつた。やがてそれも絶えると、僕は年齢の二十余りも違ふ大人の前に罷《まか》り出た青年の、あの後悔を感ずるのであつた。代議士の妾宅であつたその家は、却々《なかなか》立派であつたので、私は『結構なお住ひです』なぞと、柄にもないことを云つて、又あらたな後悔をするのであつた。
やがて酒はどうだといふ。私はまだ死んだ弟の仇打をしなければならないと、云つてみればそのやうな気持を、此の医者と対座して以来益々抱いてゐたの
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