で、さりとてその緒口も見付からない時であつたので、ええ、戴きますとさう云つた。その云ひ方がやけにまた力を籠めてゐたので、奥さんは医者を見て妙な顔付をした。『うん、持つて来い。』奥さんは酒の仕度に行つた。
 読者よ、何卒《なにとぞ》茲に見られる私の執拗を咎めないで下さい。お咎めになるまでもなく、私自身かういふ点では十分に罰せられてゐる。しかしそれにしても、もし今後私が少々人物を書き分けることができるとすれば、それは此の執拗を以て、辛いながらも人に接し、小胆なくせに無遠慮でもあるからなのです。
 酔ひが廻るに従つて、私はまた例の如く喋舌りまくした[#「した」に「ママ」の注記]。その私はげにも大馬鹿三太郎であつた。後ではまた慚愧《ざんき》するのだとも思はないでもないのだが、これが私の人に親炙《しんしや》したい気持の満たし方であり又、かくすることによつて私は人に懐《なつ》き、人を多少とも解するのである。その大馬鹿三太郎を抑制することは今、この医者の友人の長男を可笑しきものとしないためには役立つのであるが、自己表現欲、或ひは又智的好奇心のためには、ただただ害があるのである。されば、ままよ。損をすることには馴れてゐる。尠くともお酒が這入つてゐれば、淡白といふか愚かといふか、人が体面を慮《おもんばか》つて遠慮するていのことくらゐは、ても眼中にないのである。
 私はそこで、『貴方が弟を到底助からないと信じていらつしやることを知つた後では、看護婦でもいい、卑しい女でもいい、ええ、つまり卑しい女の方がいい、ともかく何等かの点で弟が好きになる女と、忽ち結婚させたかつた』とも云ひ、『どうせ死ぬと、仮令《たとへ》分つてゐても、患者に云ひ聴かせることはお願ひですからやめて下さい。』とも云つた。
 すると医者はまた、例の悟りを参照しようとするから、『いいえ、それは間違つてゐます。諦めが大事であるとはいへ、諦めがつかないことが直ちに愚かであるとは申せません。此の世に乞食はゐるものだといふことが真でも、では若干は乞食もゐるやうにすべき理由はないのと同じことでございます』と、死んだ弟を思へば、弟が身を以て感ぜしめられた事を種に、私はまたなんたる狂態だらうと、かにかくに自責の情が湧くのでもあつたが、独りゐては、あれやこれやと迷ひ夢みる私であれど、人に対しては男性的といふか論理的といふか、思ひ切りよく理性的であるのであつた。
 奥さんは、もう出ては来ず、奥の方で琵琶を掻きならし、その子供のない太つちよの、快活無比の奥さんが鳴らす琵琶の音は少々ぞんざいで、嘲弄されてゐるやうな気持もされるのであつた。が、こんな気持を咬殺《かみころ》すことにも、私は今云つたやうに可なり男性的である。
 而も猶、一寸立つて便所に行かうとすると、途中で曲つてゐる梯子段を踏み過《あやま》つて、私は四五段も辷り落ち、肘《ひぢ》をしたたか磨《す》り剥いたのだが、驚いてとんで来た医者に、抱き取られながらも、いい気味だいい気味だ、死んだ弟を忘れてゐたから罰が当つたのだと、急にまた千万無量な思ひをするのであつた。心臟よ、ドキドキと鳴れ、肘よ痛め。これが死んだ弟への懺悔の一端ともなれば、ああなんと、嬉しいことであらう!……
 酒は顔全面にのぼつて来て、頭の心《しん》はヅキヅキした。

 それからなほ三十分も飲んだ後、辞して立たうとすると、先刻は腰も打つたとみえ、腰が痛くてよろけさうになり、医者に助けられて自動車に入れられた時は、なんとも羞《はづか》しく、玄関に立つて可笑しさを怺《こら》へてゐた奥さんの顔は、自動車が田圃の中の道路を走つてゐる間中、眼に浮かぶのであつた。

 家に著くや無理に、気持を引き立てて、腰の痛みをみせまいやうに一心に姿勢を作つて、『ただ今』といと冷然と云つた。
『まあまあ、沢山に飲んで。また今迄何のお話をしていたのでせう。』と母はその貧血の顔をのぞけて私を感じ取るのであつた。
『いいえただ、泰三の思ひ出話ばかりしてゐました。先生は僕の東京の話なぞ訊くものですから、分りよく納得のゆくやうに話しました。』
 母は悲しげに私から眼を離すのであつた。
『もうみんな休みましたね』云ひながら私は私の寝床のある離れの方に歩いた。
 その部屋には、祖母と私の床があつたのであるが、私が部屋に這入ると、祖母は目を覚まし、『おお/\御苦労だつた』と云つた。
 悔恨は胸に迫つて、仰《あふむき》に寝ても、横になつても寝付かれなかつた。一町ばかり先にある、今自分の乗つた自動車の通つて来た道を、オートバイが遠雷のやうに近づき、やがて消えていつた。
[#地から1字上げ](一九三三・一〇・一八)



底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社
   1994(平成6)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「中原中也
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中原 中也 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング