るか、それを確言することは困難であるが、辛じて私に言へることは、世界が忘念の善性を失つたといふこと、つまり快活の徳を忘れたといふことである。換言すれば、世界は行為を滅却したのだ。認識が、批評が熾んになつたために、人は知らぬ間に行為を規定することばかりをしだしたのだ。――考へなければならぬ、だが考へられたことは忘れなければならぬ。
直覚と、行為とが世界を新しくする。そしてそれは、希望と嘆息の間を上下する魂の或る能力、その能力にのみ関つてゐる。
認識ではない、認識し得る能力が問題なんだ。その能力を拡充するものは希望なんだ。
希望しよう、係累を軽んじよう、寧ろ一切を棄てよう! 愚痴つぽい観察が不可ないんだ。
規定慾――潔癖が不可ないんだ。
行へよ! その中に全てがある。その中に芸術上の諸形式を超えて、生命の叫びを歌ふ能力がある。
多分、バッハ頃から段々人類は大脳ばかりをでかくしだしたのだ。その偏倚は、今や極点に達してゐる。それを心臓の方へ導かうとする、つまりより流動的にしようとして、十九世紀末葉は「暗示」といふ言葉を新しく発見したのだつたが、それはやがて皮膚感覚ばかりの、現に見る
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