とみえ、真面目に何かをやつてゐる者は驢馬なのである。おまけに熾んな社交意識が伴つて、如何に虚栄を演ずるかといふことの中に人格の価値があるかの如く思ひ做される、さういつた風潮は日々に激しい。それは恰度芸術にあつて、表現方法をばかり問題にされることの生活的方面での現れである。)
 力なきものは自ら萎む。漸くにして彼等も倦怠を覚えてゐる。――然らば如何にすべきか?――彼等は迷つてゐる。そして世界中が迷つてゐる。やがてその中から低い声が一つした。観念論に行けと。――その声にともかくも好感を懐いた人達の或者は、感傷的な道徳家となり、他の或者は批評主義派になつてしまつた。
 それ等さへまた倦怠に入りつゝある昨今、芸術界が経済学だの歴史だのといふことを気にしはじめてゐることは、随分ありさうなことで、そして同情さるべき事情である。
 この情態が面白からぬことを気付く頃に現れる次の現象は、凡そ私に分る所を以てすれば、心理的に病弊を究明しはじめることであらう。
 然し、それら後から後から案出される※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]きの種々は、結局失敗に終るだらう。
 これらの失敗の原因が何であ
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中原 中也 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング