に見える。歌ではなく歌の原理だ。かくて近代の作品は外的である。叫びとそれの当の対象との関係がより細かに知られるに従つて益々外的となる。叫び(生活)そのものは遮断されたまゝになつて、叫びの表現方法が向上して行くのであるから、外的になる筈である。まるで科学の役目を芸術が引受けたかのやうだ。
 表現方法を考慮しては、自分で自分の個性的な情緒とみえるもの、即ち自分の抽象情緒を組立てることが近代的諸作家のやつたことなのである。セザール・フランクが、或はスクリャビンがやつたあの旋廻は、蓋し彼等の抽象情緒の周囲を旋廻したのである。
 つまり近代は、表現方法の考究を生命自体だと何時の間にか思込んだことである。
(近代は生活を失つた! 偶然にも貧民階級の上にだけ生活があつた!
 批評が盛んになる時に、作品は衰へる、とは嘗つてゲエテの言つたことだつけ。げにほんとであることよ!――尤も、批評は盛んになるがよい、而して生活はなほ盛んになれば好いのだが、とかく批評の盛んな時に、生活は衰へ勝ちなことではある。
 今や世は愛も誠実もあつたものでない。厚化粧の亡霊等は苟安の中に百鬼夜行する。ディレッタント達が一番壮大
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