分の叫びの当の対象をこれだと指示することが出来ない時、さしあたつて表現を可能にするものが、かの夢想的過程にあると見られる。トンポエムが作られた所以である。
 然るに夢想的過程なるものは、表出されたとして人生的位置を、即ち meaning を持たない、つまりソナタにならないのだ。トンポエムは必竟表象の羅列である。その羅列が如何に万全を期してゐる際にもなほ、心的快感を喚起するまでゞある。尤も、純粋にエステティクに言つて、デスクリプションよりも進んだものとは言へる。
 然るに、事実歌ふ場合に、人は全然トンポエムにもなれない、又全然デスクリプションにもなれない。この時イージーゴーイングな方面で一番好都合なのは、言つてみればその歌の動機を説明しては、トンポエムすることなのである。かゝる時テーマ楽曲が存在した。
 此処に芸術は一頓挫した。やがて近代の諸主義が生れるのであるが、要するにそれ等の数々は、要するに根柢に於て一括されるかと思ふ。即ち、それは叫びとそれの当の対象との関係を認識しようとしたことであつた。そこで近代の作品は、私には、歌はうとしてはゐないで、寧ろ歌ふには如何すべきかを言つてゐるやう
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