るにかゝる態度によつて表現がなさるゝ場合、表現物はそれの作される過程の中に、根本的に無理を持つと考へられる。何となれば、「あゝ!」なる叫びと、さう叫ばしめた当の対象とは、直ちに一致してゐると甚だ言ひ難いからである。「見ることを見ること」が不可能な限り、自己の叫びの当の対象を、これと指示することは出来ない。たゞそれが可能に見えるのは、かの記憶、或は経験によつてゞある。
かくて、表現は、経験によつて、叫びの当の対象と見ゆるものを、より叫びに似るやうに描いたのである。かゝる時生活は表現(芸術)と別れ勝ちになるのだつた。言換れば叫びは無論生活で、その生活に近似せしめる習練――技《わざ》の習得が芸術となるのだつた。そして芸術史上の折々に於て、殆んど技巧ばかりが芸術の全部かの如き有様を呈した。その間にあつて、たゞ叫びの強烈な人、かの誠実に充ちた人だけが生命を喜ばす芸術を遺したのである。音楽に於けるその著しい例がベートーベンである。正にドビュッシイが言ふやうに、ベートーベンはデスクリプションした。然るに彼の叫びの強烈さがデスクリプションを表現的にしたのだ。
「見ることを見ること」が不可能な限り、自
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