をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

嘗《かつ》て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣《けもの》や子供にしか、
彼女は出遇《であ》はなかつた。おまけに彼女はそれと識《し》らずに、
唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!

   III
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼《まなこ》
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生《あ》れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索《もと》む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝《まさ》らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

   IIII
私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。

私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。

またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩《わづら》ひのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ!

   V 幸 福
幸福は厩《うまや》のなかにゐる
藁《わら》の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

  頑《かたく》なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛らす。
  そして益々《ますます》不幸だ。

幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈して、怒りやすく、
  人に嫌はれて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕《ゆた》かとならんため!


更くる夜
  内海誓一郎に

毎晩々々、夜が更《ふ》けると、近所の湯屋の
  水汲む音がきこえます。
流された残り湯が湯気となつて立ち、
  昔ながらの真つ黒い武蔵野の夜です。
おつとり霧も立罩《たちこ》めて
  その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠がします。
その頃です、僕が囲炉裏《ゐろり》の前で、
  あえかな夢をみますのは。
随分……今では損はれてはゐるものの
  今でもやさしい心があつて、
こんな晩ではそれが徐《しづ》かに呟きだすのを、
  感謝にみちて聴きいるのです、
感謝にみちて聴きいるのです。


つみびとの歌
   阿部六郎に

わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙《はや》く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾《たぎ》り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索《もと》めんとする。
その行ひは愚かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、

懶懦《らんだ》にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂《へつら》ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来《しでか》してしまふ。






   1
昨日まで燃えてゐた野が
今日茫然として、曇つた空の下《もと》につづく。
一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ
秋蝉は、もはやかしこに鳴いてゐる、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草を喫ふ。その煙が
澱《よど》んだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎《かげろふ》の亡霊達が起《た》つたり坐つたりしてゐるので、
――僕は蹲《しやが》んでしまふ。

鈍い金色を帯びて、空は曇つてゐる、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯《うつむ》いてしまふ。
僕は倦怠を観念して生きてゐるのだよ、
煙草の味が三通りくらゐにする。
死ももう、とほくはないのかもしれない……

   2
『それではさよならといつて、
めうに真鍮《しんちゆう》の光沢かなんぞのやうな笑《ゑみ》を湛《たた》へて彼奴《あいつ》は、
あのドアの所を立ち去つたのだつたあね。
あの笑ひがどうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。
彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。
話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。
短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええさうよ。――死ぬつてことが分かつてゐたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達《せんだつて》よ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』
   
   3
草がちつともゆれなかつたのよ、
その上を蝶々がとんでゐたのよ。
浴衣《ゆかた》を着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。
あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々で聞こえてゐたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、
昨日三十貫くらゐある石をコジ起しちやつた、つてのよ。
――まあどうして、どこで?つて あたし訊《き》いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。

死ぬまへつてへんなものねえ……


 修羅街輓歌
    関口隆克に

   序 歌
忌《いま》はしい憶《おも》ひ出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!

  今日は日曜日
  縁側には陽が当る。
  ――もういつぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……

  忌はしい憶ひ出よ、
  去れ!
     去れ去れ!

   II 酔 生
私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲《ここ》に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……

   III 独 語
器の中の水が揺れないやうに、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしさうするために、
もはや工夫《くふう》を凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。

   IIII
いといと淡き今日の日は
雨|蕭々《せうせう》と降り洒《そそ》ぎ
水より淡《あは》き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いはれもなくて拳《こぶし》する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。


 雪の宵 

      青いソフトに降る雪は
      過ぎしその手か囁《ささや》きか  白秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
  
  ふかふか煙突|煙《けむ》吐いて、
  赤い火の粉も刎《は》ね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんにわかれたあのをんな
  いまごろどうしてゐるのやら。

ほんに別れたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

  徐《しづ》かに私は酒のんで
  悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。


 生ひ立ちの歌

   I
    幼年時
私の上に降る雪は
真綿《まわた》のやうでありました

    少年時
私の上に降る雪は
霙《みぞれ》のやうでありました

    十七―十九
私の上に降る雪は
霰《あられ》のやうに散りました

    二十―二十二
私の上に降る雪は
雹《ひよう》であるかと思はれた

    二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

    二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   II
私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪《たきぎ》の燃える音もして
凍るみ空の黝《くろ》む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました


 時こそ今は……

      時こそ今は花は香炉に打薫じ
              ボードレール

時こそ今は花は香炉に打薫《うちくん》じ、
そこはかとないけはひです。
しほだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子、今こそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬《まがき》や群青《ぐんじやう》の
空もしづかに流るころ。

いかに泰子、今こそは
おまへの髪毛《かみげ》なよぶころ
花は香炉に打薫じ、


羊の歌

羊の歌
   安原喜弘に
 
   I 祈 り
死の時には私が仰向《あふむ》かんことを!
この小さな顎《あご》が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
 
   II
思惑よ、汝 古く暗き気体よ、
わが裡《うち》より去れよかし!
われはや単純と静けき呟《つぶや》きと、
とまれ、清楚のほかを希《ねが》はず。

交際よ、汝陰鬱なる汚濁《をぢよく》の許容よ、
更《あらた》めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は既に無用の有《もの》に似たり。

汝、疑ひとともに見開く眼《まなこ》よ
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず

   III
    我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
    其処此処《そこここ》に時々陽の光も落ちたとはいへ。
                         ボードレール
九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有《いう》であるやうに
またそれは、凭《よ》つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。

私は炬燵《こたつ》にあたつてゐました
彼女は畳に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室《へや》には、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶《みみのは》 陽に透きました。

私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は蜜柑《みかん》の色に
そのやさしさ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中原 中也 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング