は氾濫《はんらん》するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読|翫味《ぐわんみ》しました。
IIII
さるにても、もろに侘《わび》しいわが心
夜な夜なは、下宿の室《へや》に独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 単調の
つまし心の連弾よ……
汽車の笛聞こえもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……
思ひなき、おもひを思ふわが胸は
閉ざされて、醺生《かびは》ゆる手匣《てばこ》にこそはさも似たれ
しらけたる脣《くち》、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫《しじま》にほとぶなり……
これやこの、慣れしばかりに耐へもする
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……
憔 悴
Pour tout homme ,il vient une e[#アクサン(´)付きのe]poque ou[#アクサン(`)付きのu] l'homme languit. ― Proverbe.
Il faut d'abord avoir soif……
―Cathe[#アクサン(´)付きのe]rine de Me[#アクサン(´)付きのe]dicis.
私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁《うれ》はしい 平常《いつも》のおもひ
私は、悪い意思をもつてゆめみた……
(私は其処《そこ》に安住したのでもないが、其処を抜け出すことも叶《かな》はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面《おもて》を、にらめながらに過ぎてゆく
II
昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる
昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない
III
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬《しようけい》したのにすぎなかつたかもしれぬ
あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
IIII
しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ
人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ
山蔭の清水《しみづ》のやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉《たの》しいだけだ
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……
V
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂《わら》はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤《もつと》もと感じ
一生懸命|郷《がう》に従つてもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに
さうしてこの怠惰の窗《まど》の中から
扇のかたちに食指をひろげ
青空を喫《す》ふ 閑《ひま》を嚥《の》む
蛙さながら水に泛《うか》んで
夜《よる》は夜《よる》とて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。
VI
しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。
そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑《をくづ》が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。
と、聞こえてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を※[#しんにょうに「官」、137]《のが》れるすべがない!
いのちの声
もろもろの業《わざ》、太陽のもとにては蒼《あを》ざめたるかな。
――ソロモン
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
僕は雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。
僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔《じ》れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。
しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆《すつかり》分かつたためしはない。
時に自分を揶揄《からか》ふやうに、僕は自分に訊《き》いてみるのだ。
それは女か? 甘《うま》いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?
II
否|何《いづ》れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!
人は皆、知ると知らぬに拘《かかは》らず、そのことを希望してをり、
勝敗に心|覚《さと》き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望みえないもの!
併し幸福といふものが、このやうに無私の境《さかひ》のものであり、
かの慧敏《けいびん》なる商人の、称して阿呆《あはう》といふでもあらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身《うつしみ》の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ。
だが、それが此の世といふものなんで、
其処《そこ》に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因《よつ》て我等自身も構成されたる原理であれば、
然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。
III
されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!
さあれ、怒ることこそ
汝《な》が最後なる目標の前にであれ、
この言《こと》ゆめゆめおろそかにする勿《なか》れ。
そは、熱情はひととき持続し、やがて熄《や》むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝《な》が次なる行為への転調の障《さまた》げとなるなれば。
IIII
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
底本:「中原中也詩集」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年6月16日 第1刷発行
1997(平成9)年12月5日 第37刷発行
親本:「中原中也全集第六巻」角川書店
入力:浜野安紀子
1998年11月29日公開
2003年6月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中原 中也 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング