物、及びその延長であり、延長――即ち感傷の根本形式である。
乃ち、東洋芸術の大部が一色であり、雑多あつて多様なき所以である。
今や我々は東西芸術の契機を見たのだから、従来屡々あつたやうに、我等の血液を嘆ずべきではない。(凡ゆる道は天に通ずる。即ち意志以外の総てのものは必竟途上の物たるに過ぎない。)
要するに芸術の泉とは徒然草に、心の鏡が澄んでゐれば全ての物が正しく映る云々の裡にあるのであつて、東洋人は自然に対しては非常に心澄ませたが、人に対しては未だ澄むことなく、卑下しすぎたり頑なだつたりしてゐる。現今は欧羅巴も亦同じやうであり、唯少し異る点は、各人が自己に閉籠つて型を造り、それを精練してゐて己が赤裸々に生きないのが欧羅巴なるに反し、我等の間では、互につけ込み合ふことを承認し合つてゐる点であらう。
人に対して平静、順応的にしてアクティヴに非ざる限り、我等が民族の文学は何時迄も反復に終るであらう。
二、実践的な覚え書
凡そ分析なるものは、私には吸気の気持ではなく呼気の気持でなされるものと思はれる。而して瞑想とは、その反対に、吸気の気持でなされると思はれる。
私
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