は近時芸術の萎凋する理由を、時代が呼気的状勢にあるからだといふやうに考へる。

 仮りに思想が分析によつてはじめて形態を取るとしても、思想の実質は、瞑想そのものではないが瞑想状態にある。

 自己分析がなされることはそれが必然的であるかぎり結構な状態であるが、その分析の結果が、直ちに行為に移らないで、その分析過程の記録慾となる時悲惨である。
 その記録慾は、分析が繊細であればある程強いのでもあらうが、その慾は昂ずれば、やがて事物から自己を隔離することになる。尠くとも理論と事実とが余りに対立して、人格の分裂となる。
 近来芸術が非常に感覚的であるか又、一方非常に理論的であるかの何れかに偏してゐるのは、如上の理由に因るのであらう。
 蓋し、「生きるとは感覚すること(ルッソオ)」であり、感覚されつつあれば折にふれて、それらは魂によつて織物とされる。その織物こそ芸術であつて、その余はすべて胃病芸術なのであらう。

 その今いふ記録慾――言換れば「回想の時間」。
 すべて回想的に努力されるのは人のヴァニティのためではないか?

 ネルヴァルの発狂、二重意識の相剋による錯乱は蓋し、彼が彼の分析方面
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