くのである。斯かる時詩は猶男の子として誕生してゐないとあつては、情ないことでもあるが、ただ此の場合、短歌や俳句といふ詩歌の形態が衰亡することを以て、詩歌そのものの衰亡となすならば早計であらう。人が、詩歌といふ「ああいふもの」を欲しくなる時がある限り、詩歌といふものは存するのである。
「散文が結果的に一つのイデーの下に凝集してゐるに対し、詩は一つのイデーから出発する」といふ河上氏の言を借用するとして、その真偽如何を問はず、詩が欲しくなる時、詩人は「一つのイデーから出発」してゐるもの即ち詩に赴くのであつて、他の物へではない。
散文が、詩にとつて代るのだらうと云ふ人があるかも知れぬが(人間の歌の呼吸が、散文程に長いものとなり得るとは一寸考へられないことからして、散文が詩にとつて変るなぞといふことは荒唐なことだとしか思へない、)もし小説が近頃流行するのでそんな気がするとならそれは小説の要求が強くなつたといふよりも、小説といふものを憧憬する青年が多くなつたといふことなぞ云つて置かう。
で、序でに、論旨を現代生活と連関させてみるならば、現在我が国が、芸術に対する関心を余り持つてをらぬといふのな
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