三ちやんがゐたので、二年目の五※[#小書き片仮名ン、40−9]ちやんは何か得をするのである。それは理論や練習の問題ではない。すべて技《わざ》の進歩といふものは、見やう見真似で覚えることから発するのである。つまり思念だけでは足りない、思念と物質とが一緒になつて働いてゐるところとか、その結果を見覚えるとかすることが勘甚[#「勘甚」に「ママ」の注記]なのである。インスパイヤーされるとは、蓋しそのことであらう。
ところで、他の事ではいざ知らず芸術では伝統といふものは大変有難いものである。それを肯定するにしても否定するにしても、まづそれがあつてのことなのである。
扨、日本の詩の伝統はと見ると、(茲では明治初年井上博士に依つて新体詩と銘[#「銘」に「ママ」の注記]名された、泰西の詩を見てから後の詩のことを云ふ)余り豊富だと云ふことが出来ない。おまけにそれが短歌や俳句の延長でなしに、純然たる詩の様態を持してゐたのならばともかくも、事実それは屡々短歌や俳句の延長であつたといふか、それらの形の崩れたものであつた。短歌や俳句がちやんとした娘ならば、詩の多くは云つてみればおひきずり[#「おひきずり」に傍
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