詩と其の伝統
中原中也

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)技《わざ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)出来|栄《ばえ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#小書き片仮名ン、40−5]
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 何時誰から聞いたのだつたか覚えないが、かういふことを聞いたことがある。
 山奥の村に、新しく小学校が設けられる。小学校では、毎年創立記念日に学童の作品展覧会が催される。尋常五年生は毎年関東地方の地図を出品するといふことになる。最初の年には三ちやんが一等賞になる。二年目には五※[#小書き片仮名ン、40−5]ちやんが一等賞をとる。かうして五六年目頃までは、年々、一等は一等でもその一等が目に見えて立派さを加へて行くのだが、その五六年を過ぎてしまふと、一等賞の関東地方の地図は年々おんなじ位の出来|栄《ばえ》となり、もうその村が格段開けるとかなんとかしない限り、その出来栄は大体変らないといふのである。
 詩も亦寔にそのやうである。最初の年の一等賞の三ちやんがゐたので、二年目の五※[#小書き片仮名ン、40−9]ちやんは何か得をするのである。それは理論や練習の問題ではない。すべて技《わざ》の進歩といふものは、見やう見真似で覚えることから発するのである。つまり思念だけでは足りない、思念と物質とが一緒になつて働いてゐるところとか、その結果を見覚えるとかすることが勘甚[#「勘甚」に「ママ」の注記]なのである。インスパイヤーされるとは、蓋しそのことであらう。
 ところで、他の事ではいざ知らず芸術では伝統といふものは大変有難いものである。それを肯定するにしても否定するにしても、まづそれがあつてのことなのである。
 扨、日本の詩の伝統はと見ると、(茲では明治初年井上博士に依つて新体詩と銘[#「銘」に「ママ」の注記]名された、泰西の詩を見てから後の詩のことを云ふ)余り豊富だと云ふことが出来ない。おまけにそれが短歌や俳句の延長でなしに、純然たる詩の様態を持してゐたのならばともかくも、事実それは屡々短歌や俳句の延長であつたといふか、それらの形の崩れたものであつた。短歌や俳句がちやんとした娘ならば、詩の多くは云つてみればおひきずり[#「おひきずり」に傍
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