[#「そのこと」に傍点]とはならないのである。又一方、大衆としては、詩といふ型がハツキリしてゐない限り、詩に詩以外の物をも要求してかゝる場合があるのだし、無理からぬことでもある。
詩といふものが、恰度帽子と云へば中折も鳥打もあるのに、帽子と聞くが早いか「ああいふもの」とハツキリ分るやうに分らない限り、詩は世間に喜ばれるも、喜ばれないも不振も隆盛もないものである。扨私は、明治以来詩人がゐなかつたといふのでは断じてない。まだ詩といふものが、大衆の通念の中に位置する程にはなつてゐないと云ふのである。大衆の通念の中に位置しない限り、算出される詩の非凡と平凡とを問はず、詩の用途といふものはなく、あるとすれば何か他の物の代用としての用途をしかしてゐないと云へるのである。
事実、詩といへば「ああいふもの」と、一般的にハツキリと位置するものとなつたとしたら、楽しむ方でも作る方でも、事情は一変するのであるが、これは容易に首肯されさうでゐて、却々了得され難いことだと思はれる。
序で乍ら、詩程ではない迄も、小説だとて、まだ一般的にハツキリと位置してはゐない。寧ろ通俗小説の方が、その点では小説(つまり純文学作品の)よりも進んでゐると考へられる。勿論私は茲で多く読まれる少なく読まれるの問題には関係なく、小説と、通俗小説との、通念としての確立振りを問題にしてゐるのである。それといふも恐らく通俗小説の方がより豊富な伝統を持つてゐたといふか、それとも通俗小説の方が小説よりも一層に容易に伝統から得をすることが出来たといふかそのどつちかであると思ふ。
要は、何度も云ふやうだが詩人がその先人のお手本――茲では必竟本場のお手本といふことになるが――を、よく呑み込まなければならない。詩人の性向の新奇と古風とを問はず、まづはその「道」に馴れなければならぬ。その上での作品でない限り、アマチュア芸だし、民族の[#「民族の」に傍点]詩となる日は来ないのである。
短歌や俳句の、なんとその「型」、その生存態のハツキリしてゐること!――では、と諸君は云ふかも知れぬ、詩人がみんな歌人か俳人かになればよいではないか。
御尤もだが、さう云ふからには、諸君は短歌、俳句、詩、といふ三つのものを随分同一性質なものだと思ひ過ぎてゐるのだ。恰かも此の三つのものは、大工と左官が或る意味では全く近く、而も別々なものであるやうに別
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