たか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦労が果して価値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。

とにかく私は苦労して来た。
苦労して来たことであつた!
そして、今、此処《ここ》、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。

   外《そと》では今宵《こよい》、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持の、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。


独身者

石鹸箱《せつけんばこ》には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女《おほはらめ》が一人歩いてゐた

――彼は独身者《どくしんもの》であつた
彼は極度の近眼であつた
彼はよそゆき[#「よそゆき」に傍点]を普段に着てゐた
判屋奉公したこともあつた

今しも彼が湯屋から出て来る
薄日の射してる午後の三時
石鹸箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた


春宵感懐

雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵《よひ》。
 なまあつたかい、風が吹く
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