壺の中には冒涜を迎へて。
雨後らしく思ひ出は一塊《いつくわい》となつて
風と肩を組み、波を打つた。
あゝ なまめかしい物語――
奴隷も王女と美しかれよ。
卵殻もどきの貴公子の微笑と
遅鈍な子供の白血球とは、
それな獣を怖がらす。
黒い夜草深い野の中で、
一匹の獣の心は燻《くすぶ》る。
黒い夜草深い野の中で――
太古《むかし》は、独語も美しかつた!……
この小児
コボルト空に往交《ゆきか》へば、
野に
蒼白の
この小児。
黒雲空にすぢ引けば、
この小児
搾《しぼ》る涙は
銀の液……
地球が二つに割れゝばいい、
そして片方は洋行すればいい、
すれば私はもう片方[#「もう片方」に傍点]に腰掛けて
青空をばかり――
花崗の巌《いはほ》や
浜の空
み寺の屋根や
海の果て……
冬の日の記憶
昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。
次の朝は霜が降つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。
夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。
雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。
つるべの音が偶々《たまたま》した時、
父親からの、返電が来た。
毎日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ帰れまい。
その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日学校で叱られた。
秋の日
磧《かはら》づたひの 竝樹《なみき》の 蔭に
秋は 美し 女の 瞼《まぶた》
泣きも いでなん 空の 潤《うる》み
昔の 馬の 蹄《ひづめ》の 音よ
長の 年月 疲れの ために
国道 いゆけば 秋は 身に沁む
なんでも ないてば なんでも ないに
木履《ぼくり》の 音さへ 身に沁みる
陽は今 磧の 半分に 射し
流れを 無形《むぎやう》の 筏《いかだ》は とほる
野原は 向ふで 伏せつて ゐるが
連れだつ 友の お道化《どけ》た 調子も
不思議に 空気に 溶け 込んで
秋は 案じる くちびる 結んで
冷たい夜
冬の夜に
私の心が悲しんでゐる
悲しんでゐる、わけもなく……
心は錆びて、紫色をしてゐる。
丈夫な扉の向ふに、
古い日は放心してゐる。
丘の上では
棉の実が罅裂《はじ》ける。
此処《ここ》では薪が燻《くすぶ》つてゐる、
その煙は、自分自らを
知つてでもゐるやうにのぼる。
誘はれるでもなく
覓《もと》めるでもなく、
私の心が燻る……
冬の明け方
残んの雪が瓦に少なく固く
枯木の小枝が鹿のやうに睡《ねむ》い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。
烏が啼いて通る――
庭の地面も鹿のやうに睡い。
――林が逃げた農家が逃げた、
空は悲しい衰弱。
私の心は悲しい……
やがて薄日が射し
青空が開《あ》く。
上の上の空でジュピター神の砲《ひづつ》が鳴る。
――四方《よも》の山が沈み、
農家の庭が欠伸《あくび》をし、
道は空へと挨拶する。
私の心は悲しい……
老いたる者をして
――「空しき秋」第十二
老いたる者をして静謐《せいひつ》の裡《うち》にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり
吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵《まこと》に魂を休むればなり
あゝ はてしもなく涕《な》かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟《はらから》も友も、はた見知らざる人々をも忘れて
東明《しののめ》の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく[#「はたなびく」に傍点]小旗の如く涕かんかな
或《ある》はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上《へ》の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……
反歌
あゝ 吾等|怯懦《けふだ》のために長き間、いとも長き間
徒《あだ》なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……
〔空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕
湖 上
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂《かい》から滴垂《したた》る水の音は
昵懇《ちか》しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切《とぎ》れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇《くちづけ》する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言《すねごと》や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはある
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