霧|罩《こ》めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。
あとには残酷な砂礫《されき》だの、雑草だの
頬を裂《き》るやうな寒さが残つた。
――こんな残酷な空寞《くうばく》たる朝にも猶《なほ》
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其処《そこ》でもまた
笑ひを沢山|湛《たた》へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。
陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏《とり》は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁《し》まず、
人々は家に帰つて食卓についた。
(飛行機に残つたのは僕、
バットの空箱《から》を蹴つてみる)
三歳の記憶
縁側に陽があたつてて、
樹脂《きやに》が五彩に眠る時、
柿の木いつぽんある中庭《には》は、
土は枇杷《びは》いろ 蝿《はへ》が唸《な》く。
稚厠《おかは》の上に 抱へられてた、
すると尻から 蛔虫《むし》が下がつた。
その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので
動くので、私は吃驚《びつくり》しちまつた。
あゝあ、ほんとに怖かつた
なんだか不思議に怖かつた、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やつたんだ。
あゝ、怖かつた怖かつた
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家《となり》は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
六月の雨
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲《しやうぶ》のいろの みどりいろ
眼《まなこ》うるめる 面長き女《ひと》
たちあらはれて 消えてゆく
たちあらはれて 消えゆけば
うれひに沈み しとしとと
畠《はたけ》の上に 落ちてゐる
はてしもしれず 落ちてゐる
お太鼓《たいこ》叩いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
お太鼓叩いて 笛吹いて
遊んでゐれば 雨が降る
櫺子《れんじ》の外に 雨が降る
雨の日
通りに雨は降りしきり、
家々の腰板古い。
もろもろの愚弄の眼《まなこ》は淑《しと》やかとなり、
わたくしは、花瓣《くわべん》の夢をみながら目を覚ます。
*
鳶色《とびいろ》の古刀の鞘《さや》よ、
舌あまりの幼な友達、
おまへの額は四角張つてた。
わたしはおまへを思ひ出す。
*
鑢《やすり》の音よ、だみ声よ、
老い疲れたる胃袋よ、
雨の中にはとほく聞け、
やさしいやさしい唇を。
*
煉瓦の色の憔心《せうしん》の
見え匿《かく》れする雨の空。
賢《さかし》い少女の黒髪と、
慈父の首《かうべ》と懐かしい……
春
春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲《あが》る。
瓦屋根今朝不平がない、
長い校舎から合唱は空にあがる。
あゝ、しづかだしづかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸|摶《う》つた希望は今日を、
厳《いか》めしい紺青《こあを》となつて空から私に降りかゝる。
そして私は呆気《ほうけ》てしまふ、バカになつてしまふ
――薮かげの、小川か銀か小波《さざなみ》か?
薮かげの小川か銀か小波か?
大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
一つの鈴をころばしてゐる、
一つの鈴を、ころばして見てゐる。
春の日の歌
流《ながれ》よ、淡《あは》き 嬌羞《けうしう》よ、
ながれて ゆくか 空の国?
心も とほく 散らかりて、
ヱヂプト煙草 たちまよふ。
流よ、冷たき 憂ひ秘め、
ながれて ゆくか 麓までも?
まだみぬ 顔の 不可思議の
咽喉《のんど》の みえる あたりまで……
午睡の 夢の ふくよかに、
野原の 空の 空のうへ?
うわあ うわあと 涕《な》くなるか
黄色い 納屋や、白の倉、
水車の みえる 彼方《かなた》まで、
ながれ ながれて ゆくなるか?
夏の夜
あゝ 疲れた胸の裡《うち》を
桜色の 女が通る
女が通る。
夏の夜の水田《すいでん》の滓《おり》、
怨恨は気が遐《とほ》くなる
――盆地を繞《めぐ》る山は巡るか?
裸足《らそく》はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧の夜空は 高くて黒い。
霧の夜空は高くて黒い、
親の慈愛はどうしやうもない、
――疲れた胸の裡を 花瓣《くわべん》が通る。
疲れた胸の裡を 花瓣が通る
ときどき銅鑼《ごんぐ》が著物に触れて。
靄《もや》はきれいだけれども、暑い!
幼獣の歌
黒い夜草深い野にあつて、
一匹の獣《けもの》が火消壺《ひけしつぼ》の中で
燧石《ひうちいし》を打つて、星を作つた。
冬を混ぜる 風が鳴つて。
獣はもはや、なんにも見なかつた。
カスタニェットと月光のほか
目覚ますことなき星を抱いて、
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