ひ出す。
 ――俺は、棄てられたのだ! 郊外の道が、シツトリ夜露に湿つてゐた。郊外電車の轍《わだち》の音が、暗い、遠くの森の方でしてゐた。私は身慄ひした。
 停車場はそれから近くだつたのだが、とても直ぐ電車になぞ乗る気にはなれなかつたので、ともかく私は次の駅まで、開墾されたばかりの、野の中の道を歩くことにした。――――――――――
 新しい、私の下宿に着いたのは、零時半だつた。二階に上ると、荷物が来てゐた。蒲団だけは今晩荷を解かなければならないと思ふことが、異常な落胆を呼び起すのであつた。そのホソビキのあの脳に昇る匂ひを、覚えてゐる。
 直ぐは蒲団の上に仰向きになれなくて、暫くは枕に肘《ヒヂ》を突いてゐたが、つらいことだつた。涙も出なかつた。仕方がないから聖書を出して読みはじめたのだが、何処を読んだのかチツトも記憶がない。なんと思つて聖書だけを取り出したのだつたか、今とあ[#「あ」に「ママ」の注記]つては可笑しいくらゐだ。

 さて茲《ここ》で、かの小説家と呼ばれる方々の、大抵が、私と女と新しき男とのことを書き出されるのであらうが、そして読者も定めしそれを期待されるのであらうが、不幸な
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