、野蛮人の仕事は単純である。粗野であり、素直であり、個性的であり怪奇である。近代フランスにおいて起った種々雑多の新しい傾向は悉《ことごと》くこの野蛮人の仕事を更に繰り返したものであるといって差支えあるまい。
即ち印象派以後、ゴーグ、セザンヌ、立体派、野獣派等正に壮大にして衰弱せる老舗の下敷から這出《はいだ》した処の勇ましき野蛮人の群であった。そして彼らの仕事の偉大なる特質は野人の特質である処のあらゆるものの単純化という事であったといっていいと思う。
しかしながら、その近代に起った野蛮人は、何世紀かの教養と、習練と文化と生活を経て来た処の神経の、明敏にしてデリケートな処の、ヒステリックである処の、そして伝統というものを、その血液の中に確実に含んでいる処の、野蛮人であったのである。
従ってその野人の仕事は、即ち近代絵画の性質は悉く非常な神経的のものであり、その技法は単純ではあるが頗《すこぶ》るデリケートなものであり個人的のものであり洗練され、鋭い処のものであるのは当然である。そして個人の心を、露骨に表そうとする処のものである。
個人的といえば、あらゆる絵画は個人的な芸術作品であると思えるかも知れないが、しかしあまりに技法が複雑となり、発達し過ぎた時代の絵画は、ややもすると、個人の製作でなくなっている場合が多いのである。日本でも西洋でも、昔の絵画は、大勢の人たちによって製造されたものが頗る多いのである。あたかも建築の如く、芝居の如く、連作小説の如く、である。
先ず先生がおおよその着想と構図とを与え、下塗り中塗りは大勢の弟子にまかせ、上塗りでさえも大勢の弟子たちがやる事は普通の事とさえされていた事さえあるらしいのである。
弟子たちは現今の人間の如く自意識が発達していなかったためか、その仰《おお》せをかしこみて、頗る謹厳丁重に指図《さしず》を待って描き上げるのであった。それは結果においては壮大な壁画や大作を作るにはかえってよき効果さえあったものである。
近頃でも、日本画の帝展制作等において、大勢の弟子たちが先生の画面へ敬意を捧《ささ》げながら一筆の光栄を拝しつつ手伝っている事は、昔と大した変化はない事を見受けるものである。
かくの如くして古代の名作は出来上っている事が頗る多いのである。それは決して私は悪い事とはいえないと思う。一人の作でも大勢の作にしても、壮大偉麗なものが出来れば幸い至極と思う。
ところが近代における人間の自意識の発達と非常な神経の発達とは、極端に個人の心の動き方を現そうとするし、また鑑賞しようとする方向に向って来たようである。
徹頭徹尾、個人でやる仕事は勢いその画面が小さくなって来た事である。即ち近代絵画の画面の容積は狭《せば》まって来ている事は確かである。そして小さい画面へ人間の神経をなるべく簡単にして深く鋭く表現しようとする。その結果は、自分の作品に対して如何にしても他人や書生や弟子や妻君の手を煩《わずらわ》す事が出来難いのである。一本の線、一つの筆触が近代絵画の生命となってしまっているのであるが故に。
その結果は、近代画家位い書生や弟子を家に養わない時代も珍らしいといっていいだろう。最も近代生活は画家をしていよいよ窮迫の底へ沈めて行く傾向もあるからやむをえない事かも知れない。また近代位い書生や弟子入りする事を嫌がる時代も尠《すくな》い、それは個人の神経を生かそうとする時代精神からであるかも知れず、またその他の種々の原因があるようだが今ここにそれを述べている暇がないので省略する。とにかく弟子の必要は完全になくなってしまった。
絵画の形式や組織が単純化され、神経は鋭くなり、画面は狭まって来た以上はその一点一画は頗る重大な役目をなす事となってしまったのである。空の一抹《いちまつ》樹木の一点、背景の一筆の触覚は悉《ことごと》く個人の一触であり一抹であらねばならなくなってしまったのである。
それは、書の精神にも、あるいはまた南宋《なんそう》画の精神とも共通する処のものである。南宋画が北画に対して起った原因と丁度近代絵画が湧出《ゆうしゅつ》した事とは、頗るそれも類似せる事を私は感じるのである。しかもその技法と精神においても、その単化と個人的である点において、心の動きある事においてその絵画の技法が持つ表情において、半《なかば》一致せる諸点を感じるのである。
古き占い法に墨色判断というものがある。その法は、白紙へ引かれた墨の一文字によって、その運勢と病気と心の悩みを判断するのである。
私はそれを非常に面白い占い法だと思っている。
近代絵画の技法は全く、その墨色の集合体だともいい得る、決して弟子や他人の一筆を容《い》れる事を許しがたい。この事は近代絵画の技法における最も重大な特質であろうと考える。
要するに、作家の心の表現に役立たない処のあらゆる複雑な衣服を脱し、うるさき技法を煎《せん》じ詰め、あってもなくてもいいもののすべてを省略してしまう事は近代技法の特質であると思う。
換言すれば、絵画の上で、弟子や他人にまかせても差支えない場所の悉くを省略して、私自身の力と心を現すに必要なもののみを確実に掴《つか》む事である。
私はこの技法を完全にまで進めているものをマチスの絵画において感じる事が出来ると思う。
私はマチスが近代技法の特質を最もよく生かし得た画人であると思っている。
絵画の技法にあってその組立の複雑な衣を脱がして行くと、最後に何が残るかといえばそれは線である。
野蛮人の絵画、太古の絵画も線に主《おも》きを置いている。近代フランスの野蛮人もまた線へ立ち戻る事に努力したようである。日本画における没骨体《もっこつたい》という進歩した技法から逆に、いわゆる、白描の域へまで立ち帰ろうとしたのである。
油絵における技法の底の底へ沈んでいた処の線を引ずり出した近代野蛮人の功績は大したものであったと思う。
次に複雑な立体を頗る簡単な立体に節約し百の調子を十にまで縮め色彩を単純にし、然《しか》る後に人間の心を複雑な儀礼の底から救い出す事に成功したと言っていいだろう。
野蛮に帰り、初期に帰ろうとする心の動きにおいて、子供の絵や野蛮人の作品が近代画家を悦《よろこ》ばしめたのであった。
それから簡略を生命とする処の東洋画、あるいは一条の線の流れが世相の百態を表す処の錦絵がフランスにおいて近代絵画の大革命を起さしめる大なる原因の一つとなった、という事は当然であろう。
その他南洋土人の原始的作品や名もない処の画家の稚拙が賞玩《しょうがん》され、素人画が賞味され、技法の上に取り入れられたりした事も当然の事であろう。
いろいろの事によって近代の新らしい絵画の技法は、自由にされ、明るくなり、簡単にされ、省略されてしまったものである。
しかしながらそれらは、何世紀の歴史と生活の背景とを持つ処の西洋における出来事であった。我が日本は決してさような油絵具を持ってなされた壮大なる芸術を作った覚えもなければ、その進歩と、老舗《しにせ》と、その衰弱の悩みも経験した事は更にないのである。その技法の下敷となって苦しんだ覚えもないのである。それは単に西洋人だけの苦悶《くもん》に過ぎなかったのである。
8 新技法と日本人
我国では、古来より単化と省略とを眼目とする処の、線によって直ちに心を現し得る処の、最も主観的な画技を以て悠々《ゆうゆう》自適しながら楽しんで来たものであった。勿論《もちろん》その技法の原因は支那より伝来せる技法と精神ではあったようだがともかくも長い年月において、独立した自由な日本らしき芸術様式を創造して来たものである。
もしも、西洋というものが、我が日本国の前へ立ち現われてさえくれなかったならば、この私たちの国は見渡す限りの美しき木造建築と、土と瓦《かわら》と障子と、鈴虫と、風鈴と落語、清元《きよもと》、歌舞伎《かぶき》、浄るり、による結構な文明、筋の通った明らかなる一つの単位の上に立つ処の文明を今もなお続けている訳であったかも知れない。
ところが、私たちが生れる少し以前において、既に本当の生《き》一本の日本文化は消滅しかかっていたのである。それは伊太利《イタリア》の文明がフランスへ渡りドイツへ影響するという具合とは全く別である処の、全く単位を異にする処の、文明によって日本は蔽《おお》われてしまったのである。
さて、この日本を蔽うて来た時の西洋の画風はといえば丁度西洋絵画が衰弱し切った頃のものであり、同時に西洋画が現代にまで漕《こ》ぎつけようとした処の努力やその苦悶の最中である処の画風であった。
そこで日本人は、西洋人が十九世紀における芸術上の苦悶を本当に体験する事なく、ただ降って来た風雨をそのまま受けていたに過ぎないのである。即ち古い手法の残りと新しき技法の初めとが相前後して渡来した訳であった。
もし、仮に、西洋において、新らしい芸術運動が起らず、古き伝統によるアカデミックがそのままに日本へ流れ込んで少しの変動もなかったとしたら、日本現在の油絵は、大《おおい》に趣きを異にしていたに違いない。明治の初めにおける高橋|由一《ゆいち》、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる。あの様式がそのまま日本で発達し成長していたならば、日本の洋画は随分ある意味において、かえって画法としては壮健な発達を成していたかも知れないと思う。
ところで日本に発達した西洋画は原田氏以後の黒田|清輝《せいき》氏たちの将来せる処のフランス印象派によって本当に開発されたのであった。以来、なおそれ以上の破格である処の伝統を抜き去ろうと努力した処の革命期の多くの絵画が侵入して素晴らしき発達を遂げたのである。
しかしながら、近代フランスの画家たちが求めた処の、技術の革命の眼目とする処は、単化と自由と、省略とプリミチーブと線と、素人らしさと稚拙と、野蛮とであったといっていいと思う。
日本人は求めずして既にそれらのものはあり余るほど、古来より心得、持参している処のものであったが故に、西洋の近代の絵画は、日本人にとっては真《まこ》とに学びやすい処の都合よきものであったのである。直ちに真似《まね》得る処の芸術様式である。西洋人は形をくずそうとして努力した。日本人はこれ以上くずしようのない形を描く事において妙を得ていたのである。
これは甚だ僥倖《ぎょうこう》な事で、他人の離縁状を使って新らしき妻君を得たようなものである。
しかしながら、何か日本人の絵には共通して紙の如く障子の如く、薄弱にして、浅はかにして、たよりない処のものが絵の根本に横《よこた》わっている事を昔から、日本人自身が感付いて来ている。そして誰れもが、相互の心に承知している処の欠点である。
私たちの仲間が集った時など、つい話がその問題に触れがちである。如何に拙《ま》ずい西洋人の絵にしてもが、かなりの日本人の絵の側へ置いて見ると絵の心の高低は別として日本人の絵は存在を失って軽く、淡く、たよりなく、幽霊の如く飛んで行く傾向がある。西洋人の絵には何かしら動かせない処の重みと油絵具の必然性が備わり、絵画の組織が整頓せるために骨格がある如くである。
最も主観的な様式である処の構成派や立体派あるいは未来派の作品においてすら、西洋人のものは殊《こと》に立体派においては、特にその立体に本当の立体が備り、空間が存在し複雑なリズムがあり、立体の種々相を眺め得るのである。
その側へ、同じ日本人の立体的作品を並べて見ると、日本人のものは立体らしい模様が描いてあるに過ぎず、よく視《み》ると立体でも何んでもない図案に見えて来るのである。
モネの海の絵を見た。画品も心も相当に高く美しいものであったが、われわれ東洋人はその絵に現われている処の海の本当の広さと地球の存在の確実さに驚かされるのである。
空の高さ断崖《だんがい》の大きさ地球の重さがある。モネの海はその地平線まで何|哩《マイル》かある。本当に船を走らす事が
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