く、最初は木炭を以って人体の素描を研究せねばならぬ。次にカンヴァスの上へ素描の下地を作り、油絵具を以て忠実にその立体と調子と色彩のあらゆる関係を研究して行く事が必要である。
この場合において、初学の人たちはややもすると、習作と製作とを混同して直ちに、何か素晴らしい芸術品を作り出そうとする傾きがあるものである。例えば研究所でまだ石膏の首の調子さえ描き得ないにかかわらず、ルノアル翁晩年の作を直ちに模そうと考え、あるいは直ちにピカソの立体をモデルに当てはめようと考える。あるいはドランの線を附け加えようとする。そして、ピカソやドランやルノアルが、如何に写実がうまいか、如何に写実で苦しんだかという事を考えまいとする傾向のあるものである。それは前章に述べた如く米のなる木を考えないのと同じである。直ちに庭からライスカレーを採取しようとするものである。
先ず最初は、あらゆる道楽心を捨て去って、そこに立つ人体そのものを尊敬する心が必要である。モデルがあらゆるものを教えてくれるはずである。モデルと自分と、そして厳格な写実、それ以上の技法はないといって差支《さしつか》えない位いのものである。
自然を勝手に置きかえて見たり、バックを無意味にぬりかえたり、不必要なものを附加したり、モデルを軽べつする事は、やがて神罰によって失明するに至るであろう。
かくの如く忠実にして厳格なる写実によって、自分の前に立てる裸身と空間との複雑にして困難な物象を描きつづけているうちに、画家は、種々様々の技法の要素らしいものを自ら拾い、自ら感得して行く訳である。そして同時に、あらゆる形態と物象を描きこなし得るだけの力と自信をも養う事が出来るのであると、私は考える。
初学の人はしばしばあまりにデッサンを習得し過ぎ、あるいは人体写生において写実をし過ぎると、形や技巧の事が気にかかって面白い絵が描けなくなるといった風の事をいう。
それから、いろいろと、現代の大家たちの絵について、かなりしっかり[#「しっかり」に傍点]とした画技の熟達を見せながら、少しも人の心を刺戟《しげき》し、感動させる力のない、調子の低い様々の画を示して問う人たちを見る。
なるほど、それはわれわれが見ても、少しも絵として迫ってくる力のない事は、全くその初学の人たちがいう通り平凡にして、かつ精神力の欠乏したしかも整頓《せいとん》だけはしているという絵である事は確かである。
しかしながら、銘刀は祟《たた》りをなすという事がある。それは銘刀の所有者が低能者であったからである。百人の低能者が最新の軍艦へ乗り込んだとしたら、その威力を充分我が海軍のために発揚し得るかどうか、うたがわしい。
われわれはそれがために軍艦を呪《のろ》い、銘刀を捨てる必要はない。何もかもが人間それ自身の問題ではある。素描や厳格な写実が人を殺す場合はあるかも知れないけれども、それは殺された人が弱かったためである。それ位の弱者は早いうちに殺されて置く方が自他共に幸福であるかも知れない。
しかしながら、人はなかなか容易に死に切れるものではない。画技の下敷となり半死半生の姿を以て、しかもそれに馴《な》れ切って平然と生きている処の大勢があるものである。そして形だけは整頓した処の、例えば甲冑《かっちゅう》を着けたる五月人形が飾り棚の上に坐っている次第である。かかる者を総称して近代の若い人たちはただ何んとなく、アカデミックという風の名称を捧《ささ》げているように思う。
石橋を叩《たた》いてばかりいて決して渡り得ない臆病者と石橋を叩く事ばかりに興味を覚えて渡る事を忘れてしまうものとがある。あるいは決して叩かずに渡る勇者がある。しかしながら石橋でさえも叩いて置く方が間違いはないようである。然《しか》る後、渡る事だけは決して忘れてはならない。
私は、以上述べた処の素描、及び人体写生を以て画技における基礎工事と考えるのである。これらの仕事を充分に研究する事は即ち石橋を叩く作業であろう。
然る後において、画家は、好む処、心の趣《おもむ》く処に従い、風景、静物、人体、その他あらゆるこの世の万象を描く事において絶対の自由と気ままとが許されているはずである。
私は以上油絵の基礎について述べて見たのである。それは甚だ不完全な説明であったが、ともかく、素描と人体研究とは油絵を描くものにとっては、充分経験しなくてはならぬ処の義務教育である事を知ってほしい。と同時にそれは画家の生涯に附き纏う処の画道の骨子であり、それによって画家は自然の組織と絵画の組織を発見もし、技法の秘密をも探究する事を得るのである。
この修業を怠《おこた》るものは一時の器用と才気から何か目新しいものを作る事が出来るとしても、それは本当に成長すべき運命を持たないであろう。月不足の嬰児《えいじ》の如く。
小児の傑作が長ずるに従って消滅するのも子供は絵画の組織を持たないからであるといっていい。
6 近代の心と油絵の組織
油絵というものが西洋に生れ、西洋人の要求と生活から湧《わ》き出してから古き歴史を持ち、やがて素晴らしい時代が来、大天才が輩出し、その時代時代において花を咲かせ実を結び、あらゆる人間の要求によって、あらゆる画風を生じ傑作を無数に残し、その技法は完全に研究され絵画の組織は充分に備《そなわ》り過ぎる位いに備ったのである。故に油絵技法とその組織というものは、私の考えによると、十六世紀の時代においてその全盛期であり、油絵技法の最頂点を示し、その時代と人間の生活との親密にして必然の要求による結合と、無理のない発達の極度にまで達しているものであると思う。
それ以後の西洋にあっては、伊太利《イタリア》、フランスの別なく、油絵芸術は習慣と惰性とによって、ともかくも連続はしていた訳であるが睡気《ねむけ》を催すべき性質のものとなり、芸術としての価値は下向して来た事は歴史に見てもその作品に見ても明《あきら》かである。
私は、ここに西洋絵画史を述べる暇と用意を持たないが、ともかくも、私は油絵具という材料とその形式で以てする芸術の限界においては、再び、レオナルドや、ルーベンス、レンブラント、ドラクロア、ヴェラスケス、ゴヤ等の仕事に比すべき位いの、材料と人間の生活と、技法と画家の心とが無理もなく完全に結び付き、壮大なものを生むべき時代はおそらく来まいと考えるのである。
あの重たく、厚く、深く、大きく、堅固で悠長《ゆうちょう》で壮大で、真実で、華麗で、油絵の組織の完備する点で、また油絵具の性状が完全に生かされている点において、私は油絵具のなさるべき、頂点の仕事が已《す》でにその時代において為《な》し尽されているように思えてならないのである。
極端な事をいえば油絵の技法は最早や大昔において、役に立ってしまった処の芸術形式であるといっても差支えないかも知れない処のものである。そして近代以後の人間世界の要求からは、多少とも不合理な材料であると思われ来るべき運命をさえ、持っていはしないかとひそかに私は疑うのである。
如何に面白い日本音楽であったとしても、近代日本女性の複雑な恋愛が新内《しんない》によって表現される訳には行き難いし、われわれの悲しみを琵琶歌《びわうた》を以て申上げる事も六《む》ずかしいのである如く、あの粘着力ある大仕掛にして大時代的な、最も壮大であった時代を起源とする歴史と組織を有する処の、ミケランジェロやルーベンスを生んだ処のその武器を持って、戦いに出る事は、近代以降の人間にとってかなり憂うべき十字架となりつつありはしないかとさえ考え得るのである。
だがしかし、今私はさような事を述べる場合ではない。われわれは近代人がこの技術を如何に処理し如何に組織を改めたかを知らねばならぬ。
全く、西洋においても、十五世紀以来、多少の変化はあったとしても大局から見て絵画は立派な老舗《しにせ》の下敷となって退屈を極め出したのである。その結果近代のフランスにおいて、とうとう印象派が起り、次に後期印象派が起り、キュービストとなり、構成派となり未来派となり、ダダとなり、あらゆるものが次から次へと勃興《ぼっこう》した事は、一つには退屈と衰亡に際する一種の死の苦悶《くもん》から湧き上った処の大革命であったに違いない。
それらのいろいろの主張や主義や、団体は、幸にして油絵の組織を悉《ことごと》く変化させ、あるいは暴動に似たイズムさえ各処に起って、近代の芸術は頗《すこぶ》る面目を改めてしまった事は何んといっても晴々とした事である。
幸にして油絵の組織は完全に潰《つぶ》されてしまった。しかしながら、組織を潰す事は油絵そのものの死を早め誘うものである事が判明した。人間の組織を潰す事は人間の死を致す場合がある。それから、人間はあまりに潰れ過ぎたものを正視する事を何んだか嫌がる本能性があるものである。過ぎたるは及ばずという言葉の如く、最近は、その潰《つぶ》れた油絵の組織をば建て直そうとする傾向が現れた。やはり、人類を生かすためには紀元以前から持参する処の古き胃袋を必要とする事、古き肺臓、古き心臓、そして古き生殖器さえも必要であると思われて来た訳であるかも知れない。
そこで近代の油絵は、また再び構成され、あるものは古典に立ち帰って研究され、あるいはその以前である処のプリミチーブの領域にまで頭を延ばして研究され、油絵の組織は整頓されようとして来たのである。
だがしかし、それらの仕事の何もかもは、近代の心と油絵技法との、そりの合わない事における末世の苦悶と見ていいかと私はひそかに考える。
何はともあれ、油絵は、油絵という範囲と限界のあるものである事が判明した。そしてその限界を越えざる程度において、組織を変改し、近代の心をその上に盛り、近代の心と個性によってその古き古き胃袋を使いこなし、古き組織の人間が新らしきツェッペリンに乗る事等によって、現代の絵画はともかくも生命を保ちつつ動いているかの如く見えるのである。
要するに油絵という芸術には、それ相当の組織があり、その組織を完全に潰すと同時に油絵は死滅しかかるものである事がわかったのである。即ちその形体、立体、線、空気、調子、光、空間、階調、構図、色彩等の相連関する処の結合体を欠く事が出来ないのである。
近代の人間のあらゆる苦悶によって、それらの伝統と、組織の要素が捨てられ、潰され、再び拾われ整理されたその結果において、ともかくもなされた近代の油絵における技法上の大事業は、あるいは特質とも見るべきものは、それは壮大なる王様の行列を数台の自動車に改めた事である。非常な省略と単化が行われ出した事だといってよい。
技法と組織の省略と単純化は近代絵画のもつ重要な特質だと言っていいであろう。
単純と省略は野性へ帰ろうとする力である。うるさい礼節の極端な発達は、人間の心をその中へ封じ込めてしまうものである。壮大にして複雑な油絵の組織と、先祖の立派な遺業は次の時代の人間の心をその下敷にしてしまったものである。
近代人の苦悶はとうとう人間の心を組織ある野性において露出せしめた訳である。フランス近代におけるフォーブの一群などはその代表的な一群であろう。
7 近代新技法の特質
人間世界の文化があまり発達し過ぎてしまう頃には、沢山の組織とあり余った規則とうるさい儀礼とでこの世の中は充《み》たされてしまう事である。そして人間の心がその下敷となって動きの取れない悲しみを味《あじわ》うものである。規則や組織が古ぼけてしまった時には、ぜひとも清潔に掃除してしまわない限り、次の新らしい人間の心は成長し難いものである。
西洋における近代のあらゆる絵画の主義や傾向の新しい各派の次ぎ次ぎと起って来た有様は、全く驚くべきものであった。それらはあたかも油絵の組織と規則の下敷から躍り出した処の勇敢なる一群の野蛮人であったといって差支《さしつか》えあるまい。
新らしき野蛮人は、いつも大掃除については欠くべからざる役目を仕《つかまつ》るものである。
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