ゆがんでしまっているので何を見ても一向つまらない風景に見えて来ます。汗だらけになって白いトワールを提げたまま舞いもどります。また大袈裟な玄関が気にかかります。また女中が眺めます、番頭が眺めます、男女の客が眺めます、気持ちは暗くなるばかりです。天候のことも考えます。滞在一週間の予定が翌日から雨と来ます。もう仕事は出来ない上に、心労は増します。私は雨の日の旅館の退屈は思っても堪らないのです。立ってみたり坐ってみたり、寝てみたり起きてみたり、いらいらして来て終いには悲しくなって腹が立って来ます。すると隣近所の人情がますます気にかかり出します。
 もう一刻も猶予がなりません、描きかけの絵はぬれたまま巻きこんでしまって、取り敢えず宿屋から逃げ出します。逃げ出してからでもまだ今支払った茶代は少しケチではなかったか位のいらぬ心配までが出て来ます。
 また汽車に乗ります、走っている間窓からの眺めは素敵です、素敵な場所には汽車も止まらず、人家もなく宿もありません、再び目的地へ着くとそこは相変わらぬ停車場前の情景が展開されます。またかと思うともうたまらなく帰りたくなるのです。すなわち帰りの切符を買い求めてしまうことになるのですが、その時は肩の荷の軽さを覚える次第であります。
 これが外国でありますと随分の気苦労も多いですが、日本のようなこの不調和が少しもありません。宿屋と、風景と、人情と、画家の仕事と、そして食物とが随分うまい具合に調子が合って行くので画家は楽しんで毎日の仕事に夢中になれるのですが、今のような日本の状態ではちょっと望み難いことでありましょう。まだ他に多くの苦情もあるのですがこの位で止めときます。

   因果の種

 誰れでも同じ事かも知れないが、どうも私はどんなにちょっと[#「ちょっと」に傍点]した絵を仕上げる場合でも、必ずそれ相当の難産をする。
 極く安らかに玉の様な子供を産み落したと云う例は、皆目無いのである。
 その難産を通り越すか越さないかが一番の問題である。越せばとに角絵は生れる。越さない時は死産とか流産とか或は手古摺りとか云うものである。
 難産が習慣となっている私にとっては、偶に軽い陣痛位いで飛び出したりすると、如何にもその作品に自信が持てないのである。情けない事である。
 それでは難産で苦しんだ時の絵は必ず上等で、玉の如き子供であるかと云うに、それが決して左様ではない。ただ妙な関係で絡みついて了って一と思いに殺して了う訳にも行かない処のものが生れたりなどするのである。
 本当のお産だってそうだ。一年間も母親は苦しんだ上、命をかけて生み落した筈の其子は、必ず上等であるとはきまっていない。でも自分達夫婦の分身であり、母親は命をかけた関係上、実は人間よりも狸に近いものであるに拘らず、ふとんや綿で包んで大切にしている。
 それを吾々他人が、一寸綿の中を覗いて見ると、全くの狸であり、昆虫であり、魚である場合が多いのだから悲しむべき事である。
 殊に、不具や低能児を抱いている母親の愛情などは又格別のものであるらしい。
 絵だってその通りで、私は三年間を此作品に捧げたとか私の霊魂を何んとかしたとか、私は神を見たとか云うふれ出しだから、一体どんなものが現れたのかと思って見ると神様が狸であったり、霊魂が狐であったりする場合の方が多いのだ。
 もし、本当の事ばかりを不作法に云う批評家があって、命をかけて抱いているその赤ん坊を一々、おや鯛だね、おや狐でいらっしゃいます。お化けかと思ったと申して歩いたら、全くそれは一日も勤まらない処の仕事であるかも知れない。心ではいもむし[#「いもむし」に傍点]だと思っても、そこは女らしいとか、まア可愛いとか、天使の様だとか、何んとか馬鹿気た讃辞でも呈して置かねばならないものなのである。
 処で私自身、全く私は命をかけつつ、そして殆んど無収入で以て、しかも日々難産をつづけ、其奇怪なる昆虫を生み落しつつあるのである。そして人間の情けなさは馬鹿な母親の如く、いもむしや狸にも似た我が子の眼玉へ接吻したりなどする事になる。
 然し、私は、不幸な事にも接吻し乍らも変な顔をしていやがるなと、心の底では思っている。然しその子は何かの因縁とか因果の種とか云うべき怖ろしいものだとあきらめて抱いている次第である。
 処が此の変なものを生み出す為めの難産には随分の体力が必要である。私が一番情けなく思うのはこの体力の不足である。
 殊に油絵と云うものは西洋人の発明にかかる処の仕事だけあって、精力と体力とで固めて行く芸術だと云っていいかと思う位いのものである。神経の方は多少鈍くとも油絵の姿だけは出来上るものだと云って差支えない。
 私は、日本人全体が西洋人程の体力を有っていない事を認めている。それは性慾や食慾に就いて考えても同様
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