ません。手紙でさえも葉書一枚でさえも書くのが嫌になる。結局絵をかいている間は無言でいたいというのが本当です。ところで手紙がすらすら書けたり、何かつまらない随筆を頼まれたりしてそれが多少興味を持って書くことが出来たりすることが重なってくると、絵を描く仕事が大変うとましいことと思われて来る。そしてパレットの絵具がかたまって幾週間を過ぎてしまうことさえある。
絵は眼の神経と、感覚から生まれてくる産物です。文学は主として心の働きのみによるもので、眼はただ軍艦の探海燈の如く人間の手の如く、足の如く、ただ普通の便宜上の役目をさえ掌っていればことは足りるのであります。したがって絵の仕事のみ夢中になっていると、視神経は驚くべき敏感さを増してくる。普通人には見えないところの色彩を画家は認め、感じ、線のあらゆる形相を知り、微妙にして微細なる明暗を識別し、同時に形と調子と色彩と線の大調和を感得するようなものでしょう。
それで私の経験ではあまりお喋りをし続けたり、文章を書いたりしたあとは眼の神経が多少うとくなるのを感じます。したがって絵画を構成する諸要素を発見することの鈍感さ、自然が発散するリズムを認め感じることの鈍さを感じます。
で、画家は無言でただぼんやりと常に黙って仕事をしていればそれでいいわけです。その方がまず幸福なのですが、私はどうも非常な淋しがり屋であるために絵を描かないその間は、何か喋ってみたく誰かと話をしていたく思うのです。まァ画家の性格としては多少悩み多くて不幸な方かも知れません。
写生旅行に伴ういろいろの障害
私はかつて写生旅行をして満足に絵を作って帰ったためしは一度もありません。必ずてこずるか、中途で止すか、あるいは重い荷物を引摺り廻って絵具箱の蓋もあけずに帰って来るかです。それでだんだん写生旅行に出ることが嫌になって、近頃は殆ど出なくなってしまいました。自分の画室で神経を休めて、制作する時のような落着いた調子には、どうも旅さきでは行かないものであります。
旅が嫌になる原因は随分いろいろあるので一口にはいえませんが、なぜそう落着いた気持ちになれなれないかと申しますと、これは人々によっては案外平気なことで、あるいは一向障害の数に入らないことかも知れませんが、神経やみのものにとっては例えば日本の今の旅行に関する設備等も随分西洋画を描くものにとっては、不便でうるさく出来上がっているようです。日本画は今も昔も筆一本と写生帖とさえあれば用は足りるのですが、西洋画は大きな荷物の七ツ道具を引摺り歩かねばなりません。仕事は全部野外の仕事です。したがって晴曇風雨のことも考えなければなりませんし宿屋の居心地も重大です。宿から出て題材の場所まで通う間の心づかいなどもあります。途中石に躓いても機嫌が悪くなって、一日の仕事に影響します。その位のものですから日本の宿屋の仕組みなどは、かなり気分をいらいらさせます。総体日本の宿屋はホテルでもそうですが、新婚旅行とか、実業家の遊山とか、道楽息子の芸者連れとか、避暑とか、何とかのためには至極便利に出来ていますが、絵描きの仕事のためには不便というよりはむしろ本当に調和が取れないことに出来上がっているのです。
まず旅館へ到着します。玄関の馬鹿気て大き過ぎた花瓶や松の日の出の金屏風など見ても早や気がおじけます。女中が代る代る出て来て世話を焼きます。これは結構なことですが、後の報酬のことが気にかかります。床の間の前には厳めしい「キョウソク」というて、私らは芝居の殿様が使うもの位に思っていたようなものが置かれてある。紫檀の机や卓上電話が輝いてあることもたまにはあります。
考えるとわれわれが今運んで来た荷物はまったく調和の取れないものでありまして、その不調和な荷物の中から絵具箱をゴソゴソ取り出しますと女中が何物かという目付きで眺めます。枠という乱暴な仕掛けのものを取り出してトワールを張ります。トワールもフランスの田舎の宿などで見るとなかなかいい味のものですが、日本の宿でこれを見るとまことに粗野な布としか見えません。これを持参の金槌でもってガンガンと釘を打ち出します。なかなか勇気の必要な仕事です。私はいつもこの勇気が出かかってへこんでしまいます。
不調和は部屋の中だけではありません。宿屋全体から見ても不調和です。まず右隣りの部屋には若い男女が海水着を着けてみたり外してみたりしています。左側の部屋では憎々しい男が四、五名の芸者と寝ながら花札を弄んでいます。その隣その隣と考えるとまったく悲観せずにはいられません。
総体が遊びであります。画家は仕事です。それでは憤然としてここを立ち去るとしますか、どこへ行っても大同小異です。思い切ってトワールを張って、何かいい場所を探し当てに出てみるとします。かなり神経が
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