るいはすべての芸事において技法のない芸事は殆《ほと》んどないといってよい。
 しかしながら、偉い画家の描いたものや、古来|神品《しんぴん》とも称されている作品のあるものには、全く技法も糞《くそ》も全く無視されたような作品があるものである。けれどもそれらはあらゆる技法が完全に作品の裏へ隠し込まれてしまった処のものであるので、隠し込まれたというよりも、むしろ、全く忘却されてしまったものであるという方が適当かも知れない。
 ところで忘却するという事は知った事を忘却するのであって初めから何も知らない事を忘却する事は不可能である。
 しかしながら知った事を完全に忘却する事は容易な事ではないと見えて、先ず知るだけで一生を棒に振ってしまったお人や学者も多い事である。
 また知った事が災難の種となってその智恵に縛られて萎《しな》びてしまう人も多いのだ。
 あらゆる事を承知した後、忘却してしまって後本当の仕業が心のまま思ったままに出来るのではないかと思う。どうも昔からのすぐれた作品を見ると、多くその傾向が見えるようである。
 ところで完全に忘却してしまう位いのものならば初めから智恵づかない方が軽便でいいともいえるが、もし自分の子供が二十歳に及んでなお寝小便をたれるという事があったら悲しむべき状態である。
 自転車でさえ二、三日の練習なしでは乗る事が出来ない、まして飛行機においてまたその曲乗りや高等飛行においてはかなりの正確な技術、技法の習練が必要であろうと考える。
 幸いにして画道においては正確な技法がなくとも早速生命に関する大事とはならないから安全であるが、しかし結果はそれ以上の悲劇となる事が多いと思う。
 ところで技法の習得、練磨、研究も必要な事は正に人の智恵と同じく画家として必要ではあるけれども、あらゆる技法は芸術の終点でも目的でもない事である。
 人が歩む事は何か目的があってそれへ到着しようとするために歩むので、これは不知不知《しらずしらず》の間に運動をしている訳だ。それで先ず用は足す事が出来るが、もし何々派、何々流の歩調にのみあまりに拘泥《こうでい》し過ぎると、その事ばかりに気を取られてとうとう徒《いたず》らに低廻するばかりとなる。
 練習ばかりで飛ばぬ飛行機は退屈だ。飛ばぬが故に安全第一ではあるけれども。
 ちょっと、豆腐を買いに行くにもワルツで行く女中があったとしたら随
前へ 次へ
全81ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング