というものについての心構えといった風の事と、それから現在の世の中に生きているわれわれの心を生かして行くのに最も適当である処の近代の技法について少々述べて見たいと思うのである。
しかしながら新らしい技法というものは昔の画法や画伝の如く、天狗《てんぐ》から拝領に及んだ一巻がある訳ではない。その一巻がない処に近代の技法が存在するのである。
従って万事は心の問題であるので技法としてお伝えする事も甚だ六《む》つかしい。私自身も油絵という船に目下皆様と共に乗り込んで難航最中なのである。燈台から燈台へ港から港へと辛《かろう》じて渡りつつあるのだ。何時《いつ》暗礁に乗上げて鯨に食べられてしまうかも知れないのである。全く偉《え》らそうな事はいえないものだ。
しかし、私は私の行こうと思っている心の方向へ常に船を向けつつ走っているつもりである。それで、今ここに私は何か技法上の事を書く事になった。がそれは先ず私の船の阿呆らしい航海日記とか航海のうちに感じた事柄を記してこれから乗船せんとする人、あるいは已《す》でに乗り込んで間のない人たちへ報告して多少の参考ともなり、心の準備の一助とかあるいは長途の旅の講談|倶楽部《クラブ》ともなれば幸《さいわい》だと思う次第である。
2 絵の技法そのものについて
絵には技法が必ずある。しかしながら技法を少しも知らずにでも絵は描ける。技法の全くない絵というものは子供の絵である。それも、うんと小さな子供の絵だ。大人でも今までかつて一度も絵というものを描いた事のない人が無理矢理に絵をかかされると、ちょっと子供と同じ程度のいわゆる自由画を描く。これが本当の技法なき絵である。しかしながらその子供もやがて人心がつき初める頃には、もう智恵と慾が付いてくるので、何かの技法を心から要求するようになってくる。自分勝手な自由画では承知が出来なくなってくるらしい。でたらめでは何んとなく恥かしいのだ。
大人でも何も知らぬ人が第一回目に描いた絵は先ず技法がないが第二回目にはすでに如何にしてという方法を考えるようになる。先ず人間の智恵は技法を要求するものである。
要するに相当の智恵付いた人間の作品はすべて何かの技法によってかかれているものである。昔も今も、古いものには古いらしい、新らしいものには新らしい、それ相応の技法が備わっている。絵に限らず、あらゆる芸術あ
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