分うるさい事だろう。しかも豆腐を買う事を忘れて帰ったら阿呆な話である。
こんな阿呆な話も不思議なようだがこの芸術の世界において一番多く見受ける話である。
要するに技法は人間の智恵であり普通教育であり礼儀作法であり常識である。従ってこの事ばかり気にするものは小癪《こしゃく》に障《さわ》っていけない。といって智恵なき者は阿呆に過ぎない。
大体、人間は何んといっても幼稚園を過ぎる頃から少しずつ智恵がついて来るはずのものだ。しかし、まだ何んといっても七、八歳から十歳までは母の胎内にありし日の面影を失わない。何んといっても半神半人の域にある。この域にあるものは絵を描く、童謡をつくる、歌う、それが皆なまでで、上手で、神品である。悉《ことごと》くが詩人で芸術家でもある。
ところで彼らが十二、三歳ともなると妙に絵も歌も拙《まず》くなってくる。彼らの心から神様が姿を消して行くのだ。従って全くの人間と化けてしまう。この時に当ってお前は人間の浅間《あさま》しさを知らないか、いつまでも無邪気でいてくれと頼んだって駄目だ。子供は大人のする事をしたがる。大人のような絵を要求する本当の技法を要求するようになる。
ところで、さように早速、大人の事が出来るものでない、自分の拙《ま》ずさがはっきりと判《わか》る、それで絵をかく事も詩を作る事も嫌になる子供が、先ずこの時期において大部分を占めてしまう。
この際になおあくまで絵を描きたがる子供は極めて尠《すくな》いものである。
それから中学女学校程度に至ると最早や神様の影は全く消えて充分な人間となる。この時代によい絵を描ける者は全くないといっていい。もし描いたとすれば大人の技法を目がけて心にもない事を描き出すものである。もし上手に描いたとしたら、それは拙いよりもなおなお厭味《いやみ》である。文章にしてもこの時代においてかなり嫌味である。
私の考えるのにこの年輩の人は絵の好きである事と素人《しろうと》としてなぐさみに描く事はいいけれども決して専門に勉強してはいけないと思う。それよりも大切な事は人間として常識である学業の勉強がよいと思う。
学業の勉強は決して面白いものではないがしかしこの時代は芸術、殊に絵の勉強には年齢が早過ぎるのである。
絵の技法はピアノ、琴、三味線の如く幼少の頃から手や指を訓練させる必要のない技術なのである。
手や指の
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