の調子を眺め、次の仕事を考える必要もあります、あまり度々《たびたび》裏返して見てばかりいると、勢や気合いが抜けて絵が大変いじけてしまうものであります、ある程度までは、度胸や胆力が必要です。
 ところで仕上った絵は、実物の風景とは、左右が反対になっています、丁度エッチングの場合と同じ事であります。
 絵具の塗り方は、あまり厚くぬらない方がいいのです、なるべく淡く、サラサラとつけて行く方がよろしい、ガラスの透明を利用してタッチを表わす工夫をするとよいのです。あるいは淡い、絵具を二、三回も重ねて、重く濃厚な部分や、軽く半透明な場所なども作るのです。すると、ガラス特有の味が出るものです。
 顔料については、油絵具を用いた場合も、粉絵具を用いた場合も、その描法に変りはありません、その効果において、油絵具の方は少し濃厚であります、粉末絵具は、自然粉っぽい気がして、サラサラとした感じがします、極く小品には油絵具がよく、少し大ものには粉絵具が適しているようであります、絵具ののびもよろしい古いガラス絵などは、主として粉末絵具が使ってあります。
 一枚のガラス面が、殆《ほと》んど絵具で塗りつぶされた時は、絵が仕上った時であります。
 出来上った絵は、よく乾かす事が必要です、乾くとその絵具のついてある面へ、その絵の調子によって、黒い紙かあるいは藍、あるいは鼠《ねずみ》色の紙をガラスと同じ大きさに切って当てます、その紙の地色によって、絵の調子を、強めたり弱めたりする事が出来ます。
 色紙を当てると、次にボール紙のような厚紙を、これもガラスと同じ大きさに切ってすて周囲を細い色紙か何かで、糊付《のりづ》けにしてしまいます、こうすると、ガラスで手を傷《きずつ》けたりすることもなく、少し位い取り落しても、こわれる事はありません。こうして一枚の絵の仕上げを終るのであります。

     五 画面の大きさの事

 画面の大きさを考える事は、重要な事であります、油絵は八号位いから百号、二百号、三百号と、どれ位いでも大きく描く事も出来、またその材料が、それだけの味を充分受け持つ力のある材料であるのです、ところで水彩は、もう二十五号以上にもなると、材料に無理が起って不愉快になります、水彩という材料は、そんな大ものを引受ける力がありません、何んとしても小品の味であります。
 ガラス絵は特に、大ものはいけないようであります、第一|馬鹿《ばか》に大きいガラスというものが、人に、何時《いつ》破れるかも知れぬという不安を与えていけません。
 それから、次へ次へと絵具を重ねることが出来ないものですから、勢い画面が単調になります、筆触《ひっしょく》もなければ絵具の厚みもない、ここで不安と単調が重なるものですから、どうしても不愉快が起らざるを得ません。
 そんなわけで、大体においてガラス絵の大作というものは、昔しから尠《すく》ないようです、日本製の風景画などに、よく三十号位いもあるのがありますが、それは大変面白くないもので退屈《たいくつ》な下等な感じのするものであります。何んといってもガラス絵は、小品に限ります、Miniature の味です。小さなガラスを透して来る宝石のような心《ここ》ちのする色の輝きです、宝石なども小さいから貴く好ましいのですが、石炭のように、ごろごろ道端《みちばた》に転《ころ》がっていれば鳥の糞《ふん》と大した変りはないでしょう。
 私の考えでは、ガラス絵として最も好ましい大きさは、二寸三寸四方から五、六寸位い、せいぜい六号位いの処だと思います。私は三号以上のものを描いた事はありません。
 ここに、作画の上に注意すべき事は、何しろさように小さい作品である上に、殆《ほと》んど想像で仕上げるものでありますから、例えば子供の肖像を描く場合、それは下絵として充分正確な素描が必要であって、芸術として厳重な考えを持って、やらなくてはいけません、どうかしてそれが、子供雑誌とか、婦人雑誌などの、甚だセンチメンタルな挿画《さしえ》となってしまう事も、怖《おそ》れねばならないのであります、この種の挿画となってしまっては、も早や、ガラス絵も何もかも、皆台なしとなってしまうのであります。
 要するにガラス絵といっても、少しも他の油絵や、水彩と変わりなく充分の写実力を養って後《の》ちでないと面白い芸術品は出来ないでしょう。
 食物でいえばガラス絵などは、間食の如きものでしょう、間食で生命を繋《つな》ぐ事は六《む》つかしい、米で常に腹を養って置かなくてはなりません。

     六 額縁の事

 ガラス絵とその額縁との関係は、なかなか重大であります、何んといっても、二、三寸の小品の事ですから、これに厭《いや》な額縁がついていれば、その小さな画面は飛ばされてしまいます、充分中の光彩を添えるだけのものでなくてはならないでしょう。
 支那のものでは、よく紫檀《したん》の縁がついています、上品でいいものです、古いビードロ絵にはそれは堪《た》まらなくいい味な、古めかしい縁がついています。
 私は額縁屋へ喧《や》かましくいって造らせたりしますが、どうもいう事を聞かないので癪《しゃく》だから致方《いたしかた》なく、私は場末の古道具屋をあさって、常に昔しの舶来縁の、古いのを探しまわるのです、古額は案外美しいものがあります、昔し渡った鏡のフチなど今も散髪屋などによく残っていますが、なかなかいいものがあるのです、こんなものは古道具屋では、あまり価値がないものですから、気の毒なようなねだんで売ってくれます、こんなのを常に買い込んで置いて、時に応じてその画面の寸法に合せて、額縁屋で切らせ、組み合させるのです、すると絵にピッタリ合った味が、成立するのであります。先ずガラス絵としての大略の事を申したつもりです、長くなりますからこれで止めときます。

   散歩雑感

 私は毎晩散歩する癖がある。国枝君などは散歩は大嫌いだという。第一歩などという言葉からして虫が好かないという。なるほど考えてみるとあまりハキハキした言葉でも仕事でもないが、癖になっていると病気のようなもので、何はさておき、ちょっと巡回して来ないと気がすまないのだ。
 ただ何となく外へさえ出れば、何か驚くようなことにありつけるような、何かが落ちていそうな、何か素晴らしいものが拾えるような気持ちがしてくるのだ。
 ところで真暗な野道や淋しい町を、いくら歩いてみても一向面白くないのだ。狐が飛び出すくらいのものかも知れない。狐でもいいから出てくれればはなはだ面白い。家の中で髭を抜いているよりもいくら景気がいいか知れない。もしその狐が美人に化けて誘ってくれればなおさら面白いではないか。もし馬の糞でもたべさされたら困るには困るが、天井の節穴を計算しているよりもどれくらい幸福だか知れないと思う。
 夢を見るということも一種の寝ながらの散歩だと思っていい。寝ると同時に醒めたら朝であったというぐらいの、完全な眠りでは夢は見られないが、時に五臓の疲れのある晩には随分興味ある一夜を送ることが出来るものだ。人間は、十年以前のある三カ月を思い出すことは出来ないが、十年前のある一夜の夢をはっきりと記憶していることがある。するとその三カ月は死んでいたも同然で、その一夜こそは面白く生きていたということにもなるようだ。人間はだから醒めているからといって威張ることは出来ない。
 私のような弱虫はどうせ長寿を保つことは出来まいと思うから、せいぜい夢の散歩でもして長生きの工夫でもしなければならないと思っている。
 夢の散歩は別として、昼間の散歩でもただ無意味に損ばかりする仕事でもない。例えば何かの芝居がかかっているとする。一度見ておこうと思う。毎晩その看板を眺めながら散歩している。不思議なことには、遂にはその芝居はもはや見てしまったものの如く思えて来ることがあるのだ。見たも同然と思えて来るのだ。千里眼のようだがまったくそんな気になる。妻君があの着物が欲しいという。毎晩眺めて通ると、もはや買って仕立てて飽き飽きして、古物がぶら下がっているものと思えて来る事がしばしばある。これらは散歩の一得であると思う。
 東京は何といっても広いから散歩にはすこぶる都合がいい。銀座から神田、広小路、浅草と歩けば限りがない。何日でも違った方面を散歩することが出来る。何者かに出会う可能性も多いわけだ。私は時々古い額縁ぐらいに出会って、買って帰ることがある。あまりそれ以上の幸福は拾えないで、紅茶の一杯でも飲んでヘトヘトに疲れて、夜遅く帰ってくるのだ。これで私は足ることを知って、まず満足して寝てしまうことが出来るのだ。しかる後は夢の散歩である。ちょっと不憫といえば不憫とも考えられる。
 ところで、大阪ははなはだ散歩の範囲が狭い。そして銀座の如くすっきりとしないのだ。何としても大阪人の集まりである、彼らの心根はすなわち嘔吐となって現れているのだ。私は道頓堀の街路ぐらい嘔吐を遠慮なく吐き散らされている盛り場をあまり見たことがない。春の四、五月頃においてことにはなはだしいのだ。一度よく眺めて歩いて下さい。すきやきの嘔吐から鰻丼のもの、洋食のものいろいろとある。胸が悪くなる。私は狐に馬糞をたべさされても腹は立たないが、人間の嘔吐だけは実に癪に障るのだ。道頓堀はまったく散歩には不適当な場所だと思う。
 それはたんに散歩を目的とする者よりもここでは芝居を見るもの、飲食をしたがるもの、芸者を買いたがるもの、買って連れて歩いているもの、女郎買いを志すもの、女給へ行くもの等、すなわち種々様々な直接行動で満ちているのだからしたがって汚なくなるわけだ。
 だから人によって志によって、その赴くところに差別があるということは、かなり必要なことだと思う。銀座はブラツクところ浅草は浅草らしく、神田は本屋、女郎は吉原、それ以下は亀井戸などとなっているから都合がよく、したがって同好の士が集まることになるからお互いに不愉快がない。
 私はこの意味でパリの地下電車やバスや市電でさえも、座席に等級をつけてあることを大変うれしく思うのである。[#「地から1字上げ」](「マロニエ」大正十五年二月)

   芸術と人間の嫌味

 嫌味といえば今一々例を挙げて説明しなくとも、大抵わかっていることと思う、われわれがとても堪らない嫌味な奴なんだという、あの嫌味のことなのだ。
 これは人間に限らず、その嫌味な人間の作ったものなら、絵でも彫刻でも芝居でも何でも嫌味なのだ。ところでこの嫌味というのは大抵人間には必ずちゃんと存在しているものである。自分こそ嫌味はなかろうと思っていても、他人が見ればちゃんと存在していることが多いのだから面白い。その中でも嫌味な奴というのはそれをうんと持っていて隠し切れない男のことかもしれない、男に限らない女でもだが。
 それは例えば人間の顔の真中に、鼻糞とか鼻の脂などが存在しているのと同じようなもので、それが素敵な美人であって、若くあるところの娘の鼻に必ず存在するところのものであるから悲しい。だから美人の要素としては鼻の中の掃除などははなはだ重要な事柄だろうと思う。
 ある時、芸者が三人集まっての雑談中ふとどんな男を一生の相手として選んだら一番幸福だろうという問題が出た。するとその一人が私は隅々のきれいな人なら大丈夫だと思うと答えたそうだ。すなわち耳穴、鼻の穴、目くそ、歯くそ、フケの類、爪のあか、こんなものを蓄めている男は、不吉と不運の神様だということに話がきまったそうである。沢山の人間を取り扱っている女達の鑑別法もなかなか面白いものだと思ったことがある。
 要するに美人の鼻糞はわれわれのフケ同様、人間の作った芸術にこの嫌味という味がどうも出たがって困るのだ。また人間の心の一部にちゃんと存在していて、そこから発散する臭気なのだから致し方がない。人間の生きている以上は湧き出してくるところの生きるという力の余りものだと考えてもいいと思う。この余りものがうっかりすると芸術にそのまま現れるのだ。
 それで人間はいくら美顔術をやっても絶対に
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