中などでお隣の美人を感じたり味わったりする不良青年は、主として触覚の世界に住む男とみて差し支えない。そんな場合その男の目は知らぬ顔をしてよそを眺めているのが常である。しかし時々は実物を眺めもするものだ。
目下めあきの触覚は知らず知らずの間にいろいろの方面へ働いているもので、その世界はかなり広いらしいが、どうも触覚というものは味覚などよりも少し品格が落ちるように思われる。味覚の方ならば友人や先輩とでも一つの晩餐をともに致しましょうかということもできるが、触覚はどうもそうは行かない。何しろ手ざわりと肌ざわりとかいっただけでもあまり高等な感じはしないものだ。たいていの場合、触覚が出ると物事が下卑てしまっていけない。
恋愛などやる時にも、最初からあまり手ざわりや肌ざわりを要求したりなどしては大変失礼なことになるものである。
夏の夜店や、電車の中や、人ごみの中、シネマの中で、不良と名のつく青少年男女はこの触覚を乱用する。しかしながら触覚というものは音のしないものだから、不良でない立派な紳士が応用していても一向発見されずにすむから、どうも触覚なるものはこっそりと不徳を行うためには便利なものである。
私はこの触覚を温かいとか冷たいとか、手ざわりや肌ざわりの範囲から一歩進めて、すなわち触覚で味わう独立した芸術を作り出してはどうかと思うのである。
芸術の中でも彫刻はよほど指の触覚を使うそうだ、モデルの肉体の凸凹などを手で触れてみるそうだ。彫刻家のモデルはそれを心わるく感じるという話を聞いた。しかしそれはただ触覚で目の働きをいくぶんか助けるだけの仕事であって、触覚が独立して芸術とはなっていないのだ。
それでは触覚で作る芸術とは一体どんなものだろうかというと、まずそれはまったく写実を離れた造形芸術であることは確かだ。何しろ神経の端から伝わって来る触感がモティフとなるのだから、自然の模倣は出来ないことだ。またやってもつまらない、それはちょうど音楽と同じことだ。
例えば富士山と海のある風景の触感を味わいたいと思って、その山と海とを手で撫で廻してみることはとうてい不可能なことである。
それでまず触覚芸術のモティフとなり得るものについて考えてみよう。
触覚のモティフはまず大体凸凹、ブツブツ、クシャクシャ、ザラザラ、ガタガタ、ゴツゴツ、コツコツ、カチカチ、ヘナヘナ、ヒリヒリ、サラサラ、ヌラヌラ、スベスベ、カサカサ、フワフワ、ネバネバ、ニチャニチャ、張力、弾力、円錐球楕円三角鋭角鈍角平面四角八角ギザギザ階段その他いろいろの複雑な立体などである。要するに目で見てははっきり感じられないもので、触れて初めて味の出るものばかりだ。
要するにこれらのモティフを作者がうまくトワール、板あるいは立体的にあらゆる材料を用いて思う存分組み立てればいいので一種の構成派の仕事である。それは立体的な複雑な触覚の音楽が作り出されると同時に目で見てもさも軟らかそうな、堅そうな、滑らかそうな、ゴツゴツらしいヘナヘナネバネバ円く長く珍しい立像が生まれ出ることだと思う。この立像は奇妙な形を呈することだろうけれども、触覚という世界から生まれたものだから、そこに非常な合理的なものがあるので、現存している構成派の作品などよりも人間には親しみがもっと多いだろうと思うのである。
この触覚芸術の展覧会が開かれたとしたら、随分珍しい光景を呈することであろうと思われる。この会場では「作品に手を触れるべからず」といったような注意の代りに「充分心ゆくまで作品を撫で廻して下さい」と記されるであろう。
それから面白いのは観覧人に盲人がすこぶる多いことである。この作品に限ってめくらもめあき同様に観賞の自由、幸福が与えられる。それからこの芸術に刺激されて、めくらの長髪連がどしどし現れる。あんま志願者が少しは減るだろうと思う。一般のめあき階級は女の尻をたたく触感以外かくも美しく複雑な触覚の世界があったのかということを教えられることとなるであろうと思ったのである。
裸婦漫談
日本の女はとても形が悪い、何んといっても裸体は西洋人でないと駄目だとは一般の人のよく言う事だ、そして日本の油絵に現れた女の形を見て不体裁だといって笑いたがるのだ。それでは、笑う本人は西洋人の女に恋をしたのかというとそうでもない、やはり顔の大きな日本婦人と共に散歩しているのである。
理想的という言葉がある、昔《むか》しは女の顔でも形でもを如何《いか》にも理想的に描きたがったものだ、西洋ではモナリザの顔が理想的美人だとかいう話しだが、なるほど美しく気高いには違いないが、世界の女が皆あの顔になってくれては大《おおい》に失望する男も多いだろうと思う、例《たと》えば私の愛人であるカフェー何々のお花の顔が、一夜にしてモナリザと化けてしまったとしたら、私は困ってしまう。
どんなに世の中が、あるいは政府が、これが一番だと推奨してくれても、私が好まないものであれば、恋愛は更《さ》らに起らないのだ。
私は人種同志が持つ特別な親《したし》みというものが、非常に人間には存在するものだと思っている、よほどの特別仕立ての人間でない限りは、人は同じ人種と結婚したがるものだ。
私は外国にいた時に、特にそれを感じた、如何にそれが正しい人間の形であるかは知らないがあのフランスの多少|口髭《くちひげ》の生《は》えた美人が、一尺の間近《まぢか》に現れたとしたら、私はその美しさに打たれるより先きに、その不思議に大袈裟《おおげさ》なその鼻と深く鋭い目玉と、その荒目な皮膚の一つ一つの毛穴に圧倒されて、泣き出すかも知れない。
足の短いのを或る理想主義から軽蔑《けいべつ》する人もあるが、私は電車の中などにおいて日本的によく肥えた娘が腰かけていて、その太い足が床に届きかねているのをしばしば見る事があるがあれもなかなか可愛いものだと思って眺《なが》める事がある。しかし近代の日本の女もその生活の様式が変ったためか、だんだん足が長くなって来たのは驚くべき位《くら》いである、足の短かい顔の大きな女はやがて日本から消滅するかもしれない、すると間もなく、日本の女も西洋の女とあまり形の上においては違いがなくなる事だろうと思う、ただ皮膚とか色の違いが残る位いである。
形は権衡《けんこう》の問題であるからこれは少しつり合いが変だと直《す》ぐ素人《しろうと》にも目につく、日本人の顔の大きさは彼女の洋装において一等皆さんの笑いの的《まと》となるのである、しかしながら色は必ずしも白色でなければならぬとは限らない、印度《インド》の女の皮膚の色には別な軟《やわら》かみと滑《なめ》らかな光沢があって美しい、また日本人の黄色に淡い紅色や淡い緑が交っているのも私は白色人のもつ単調な蝋《ろう》のような不気味さよりも、もっと異常のあたたか味と肉臭をさえ、私は感じる事が出来ると思う。
日本人の裸を最もうまく描いたものは、何といっても浮世絵だと思う、浮世絵に現れた裸体の美しさは、如何に西洋人が描いた理想的という素敵《すてき》な裸体画よりも、如何に人を感動せしめるかは私がいわなくとも知れている事実である、それは決して若い男女が、見てはならないものであるとさえされている位い、それは感動的である。法律はこれらの絵の売買をさえ禁じているではないか、一目見ると心臓が昂《たか》ぶるというまでにその裸体は人を動かせるのだから堪《たま》らない。
私はかなり多くの西洋の裸体の絵を見たが、如何にそれが理想的美人であっても、権衡が立派であっても、絵の技が優《すぐ》れていても、写実であっても、心臓が昂進《こうしん》するという事は更らになかったようである。
全く浮世絵師の作は、それがどんな無名の作家であってさえも、その手足や姿態のうまさにおいて、私は感心するのである。
ところで、西洋人が裸体を描くのは、もっと理論的で科学的である、如何に権衡があって、如何に色彩があって、如何にデッサンがあって、如何に光があって、如何に立派に構成されているか、という風に描かれてある。
この人間の体躯《たいく》の美しさをば、苦労のありたけを、つくして、説明しているその科学的にめんじて、法律は浮世絵の如く裸婦像をば禁じないのだろう、でも年に何回かは撤廃を見る事があるのは甚《はなは》だ遺憾ではあるが、これは今の半ぱな世では致し方のない事かも知れない。
大体、私自身は西洋人よりも日本の女の方が好きなのだ、それで裸体をかく時にでも、私は決して理想的なものを求めたくない、各《おのおの》のモデルに各様の味があるのだから面白いのである、人の顔が各違っている如くに。
ところで日本では裸婦を描くのに大変不思議な障害が伴って来るのだ、それは画室の習作とすれば何んでもない事であるが製作となってはやはり何とか、裸婦としての自然な生活状態が必要となってくるのだ。
例えば西洋であって見れば水浴の図とかあるいは椅子《いす》による女とか、化粧図とか色々裸の女とその自然な生活との関係が描かれてある。
ところが日本ではその女の裸としての自然な生活からモティフを求めようとしても、ちょっと困難なのだ、あるにはあっても、実にこれはまた、見ても紹介してもならないという場所における事柄ばかりであるのだから。
例えばベッドの側に立てる女の図を、日本的に翻訳して描いて見るとかなり困った図が出来上るのだ、即《すなわ》ち煙草《たばこ》盆、枕屏風《まくらびょうぶ》、船底枕《ふなぞこまくら》、夜着《よぎ》赤い友染《ゆうぜん》、などといったものが現われて来るのだ、そして裸の女が立っていれば如何にも多少気がとがめる事になる、即ち上演を差止められても文句がいえない気がするのだ。
洋室というものは大体において、ベッドなどはさっぱりしていて、むさくるしい[#「むさくるしい」に傍点]という感じが出ないのが万事に好都合なのだ、ベッドはむしろ部屋《へや》の飾りの一つとなっている場合が西洋では多い、日本では昼の日中《ひなか》に寝床を見ては如何にも嫌《いや》らしい、そこで西洋室に住む画家はいいとして、日本の長屋の二階、六畳において裸婦像を描かねばならぬという事は何んと難儀な事件である事だろう。
そこでわれわれは活動写真のセットの如く安い更紗《サラサ》を壁へかけて見たり、似合わぬテーブルを一つ置いて見たりなどするのだ、すると裸婦が婦人解放の演説でもしている形ともなるので、思わず阿呆《あほ》らしさが込み上げてくる事がある、ではこの長屋の二階と裸婦の生活的調和を試みようとするならば、即ち許されそうにもない場面を、持ち出さねばならない事になるのである。
私はしばしば展覧会において日本の女がどこの国の何んというものかわからない、エプロンのようなものを身につけたり、白い布を腰に巻いて水辺《みずべ》でゴロゴロと寝たり、ダンスしたりしている図を、見かけるのであるが、今の日本の何処《どこ》へ行けばこんな変な浄土があるのかと思っておかしくなる事がある。
私は裸婦を思うと同時にいつもこの変な矛盾を考えて多少の恐れをなすのである。
芸事雑感
仕事の性質によっては老人が適しているものと、青年がこれに適しているものとあるようです。あるいは小供が適しているもの、女が適しているものなどがあります。
童謡を歌ったり、鼻を垂れたり、寝小便をする仕事は何といっても小供にはかなわない。女郎とか妻君とかいう仕事は男はどうも代理が勤めにくいようであります。
小供とか女とかという種類になるとよほど区別が明らかであるように見えますが、人間の少年と中年と、老年とにおける仕事の差別などはかなりややこしいので、つい少年が中年らしい仕事をしたり、中年が小供の真似をしてみたり、老人が青年の仕事を奪ったり、青年が老人の真似をしたりなどすることもよくあります。
これは好きでやるなら女の真似でも小供の真似でも老人の真似でも、何の真似でも勝手次第にやって少しも差し支えのないことであります。好きでやるなら青年が女郎の仕事も手伝
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