では一字下げをしていない]
 少し方向を転じて島の内へ来ると、長堀川の板屋橋に俗に住友の浜といって、市の今は中央であって、なおかつ昼間でも投身する者があるというくらい閑寂な場所が奇跡的に残っているのです。ここにもやはり古い西洋館があります。木造で美しい鎧窓が見えます。これは一昨年国枝君が二科へ出した、S橋畔という画に描き込まれてあったものです。これがまた愛すべきもので私はよくこの浜へ来て、この家を眺めます。
 この家はいつも閉ざされていて人の気配がありません。フランスなどであれば、こんな種類の古物はよくミューゼなどにして開放してあるものだがなどと、友人と話しながらこの前を通ることがあります。
 それから心斎橋筋を通ると二、三の時計台が目につく。その中でも一番古風そのままで遺っているのは東側にあるものです。今何とかいう時計屋になっているのです。私はこの時計台を大変好いているのです。時計台だけでなく家全体がなかなかいい構造になっています。惜しいことには道幅が狭いので、家全体を眺めることがむずかしいので、古物風景としての眺望がききません。まだ数えるといろいろありますが、こんな風景はだんだん新式の風景と交替して来そうです。それも結構だが、美しいものだけは死なしたくないものであります。[#地付き](「中央美術」大正十四年三月)

   写生旅行に伴ういろいろの障害

 私はかつて写生旅行をして満足に絵を作って帰ったためしは一度もありません。必ずてこずるか、中途で止すか、あるいは重い荷物を引摺り廻って絵具箱の蓋もあけずに帰って来るかです。それでだんだん写生旅行に出ることが嫌になって、近頃は殆ど出なくなってしまいました。自分の画室で神経を休めて、制作する時のような落着いた調子には、どうも旅さきでは行かないものであります。
 旅が嫌になる原因は随分いろいろあるので一口にはいえませんが、なぜそう落着いた気持ちになれないか[#「なれないか」は底本では「なれなれないか」]と申しますと、これは人々によっては案外平気なことで、あるいは一向障害の数に入らないことかも知れませんが、神経やみのものにとっては例えば日本の今の旅行に関する設備等も随分西洋画を描くものにとっては、不便でうるさく出来上がっているようです。日本画は今も昔も筆一本と写生帖とさえあれば用は足りるのですが、西洋画は大きな荷物の七ツ道具を引摺り歩かねばなりません。仕事は全部野外の仕事です。したがって晴曇風雨のことも考えなければなりませんし宿屋の居心地も重大です。宿から出て題材の場所まで通う間の心づかいなどもあります。途中石に躓いても機嫌が悪くなって、一日の仕事に影響します。その位のものですから日本の宿屋の仕組みなどは、かなり気分をいらいらさせます。総体日本の宿屋はホテルでもそうですが、新婚旅行とか、実業家の遊山とか、道楽息子の芸者連れとか、避暑とか、何とかのためには至極便利に出来ていますが、絵描きの仕事のためには不便というよりはむしろ本当に調和が取れないことに出来上がっているのです。
 まず旅館へ到着します。玄関の馬鹿気て大き過ぎた花瓶や松の日の出の金屏風など見ても早や気がおじけます。女中が代る代る出て来て世話を焼きます。これは結構なことですが、後の報酬のことが気にかかります。床の間の前には厳めしい「キョウソク」というて、私らは芝居の殿様が使うもの位に思っていたようなものが置かれてある。紫檀の机や卓上電話が輝いてあることもたまにはあります。
 考えるとわれわれが今運んで来た荷物はまったく調和の取れないものでありまして、その不調和な荷物の中から絵具箱をゴソゴソ取り出しますと女中が何物かという目付きで眺めます。枠という乱暴な仕掛けのものを取り出してトワールを張ります。トワールもフランスの田舎の宿などで見るとなかなかいい味のものですが、日本の宿でこれを見るとまことに粗野な布としか見えません。これを持参の金槌でもってガンガンと釘を打ち出します。なかなか勇気の必要な仕事です。私はいつもこの勇気が出かかってへこんでしまいます。
 不調和は部屋の中だけではありません。宿屋全体から見ても不調和です。まず右隣りの部屋には若い男女が海水着を着けてみたり外してみたりしています。左側の部屋では憎々しい男が四、五名の芸者と寝ながら花札を弄んでいます。その隣その隣と考えるとまったく悲観せずにはいられません。
 総体が遊びであります。画家は仕事です。それでは憤然としてここを立ち去るとしますか、どこへ行っても大同小異です。思い切ってトワールを張って、何かいい場所を探し当てに出てみるとします。かなり神経がゆがんでしまっているので何を見ても一向つまらない風景に見えて来ます。汗だらけになって白いトワールを提げたまま舞いもどります。また大袈裟な玄関が気にかかります。また女中が眺めます、番頭が眺めます、男女の客が眺めます、気持ちは暗くなるばかりです。
 天候のことも考えます。滞在一週間の予定が翌日から雨と来ます。もう仕事は出来ない上に、心労は増します。私は雨の日の旅館の退屈は思っても堪らないのです。立ってみたり坐ってみたり、寝てみたり起きてみたり、いらいらして来て終いには悲しくなって腹が立って来ます。すると隣近所の人情がますます気にかかり出します。
 もう一刻も猶予がなりません、描きかけの絵はぬれたまま巻きこんでしまって、取り敢えず宿屋から逃げ出します。逃げ出してからでもまだ今支払った茶代は少しケチではなかったか位のいらぬ心配までが出て来ます。
 また汽車に乗ります、走っている間窓からの眺めは素敵です、素敵な場所には汽車も止まらず、人家もなく宿もありません、再び目的地へ着くとそこは相変わらぬ停車場前の情景が展開されます。またかと思うともうたまらなく帰りたくなるのです。すなわち帰りの切符を買い求めてしまうことになるのですが、その時は肩の荷の軽さを覚える次第であります。
 これが外国でありますと随分の気苦労も多いですが、日本のようなこの不調和が少しもありません。宿屋と、風景と、人情と、画家の仕事と、そして食物とが随分うまい具合に調子が合って行くので画家は楽しんで毎日の仕事に夢中になれるのですが、今のような日本の状態ではちょっと望み難いことでありましょう。まだ他に多くの苦情もあるのですがこの位で止めときます。

   グワッシュとガラス絵

 正しいものとか本式のものとかいうものはやはり正当で本式ではあるが、人間はそればかりではどうにも暮し難いもので真面目な顔は正当で本式で深酷であるからというて朝から寝るまで、その本式の顔をしていてはどうも気づまりでやりきれない。少しは笑いもしなくてはかなわない、笑うのが先天的に嫌な人でもせめては苦笑ぐらいはするかも知れない。
 まったく気が鬱してくるということは恐ろしいことであって、それに気がつけばすぐ散歩をするとか笑ってみるとか、あんまを呼ぶとか、応急の処置をとるが、気の鬱していることは自分の鈍感から気づかずにいると終いには気鬱症という陰気な病いが起こる。ジメジメとしたヒステリーはまったく見ていて気の毒である。
 絵でもそれに似た現象がよくある。油絵でコツコツとやる、毎日むきな顔をしてモティフをにらみつけて、深酷を看板としているとまったくもってやりきれないことになることがよくある、また出来る絵も正統かも知れないがあくびの出るような絵がそんな場合にはよく産出されるものである。また技巧の問題や表現の方法などについても、行きづまってこれもあくびよりほか致し方のないことになる場合が少なくない。
 こんな時は食事でいえば午後三時頃とか、夜の十時過ぎとかであって、正当なめしよりもむしろちょっとカフェーにでも入って何かたべるのがいい考えかと思う。そして美人なども眺めることが出来て、大いに見聞をも広めることが出来るのである。絵もその通りでちょっといわゆるつまみ食い、あるいは間食という奴をやることはなかなか元気を回復させて、また一種の世界を発見させるものである。しるこやカフェーだけで生命をつなぐことはむずかしいかもしれないが、気鬱を起こさしめない必要品である。
 そんな意味からでも画家は油絵の一点張りではまったくやりきれない。時には水彩もやってみたくなればグワッシュもやりたくなる、あるいはエッチングをやるのも面白いだろうし、木版を彫ってもいい、あるいは素描パステル、何でも好きなことをやれば気持が直る。またその色々について特種の色や、技法があるのでその効果からまた一種の技法を発見することも出来るし、これがまた本式の油絵に影響もして新しい様式を発見したりよき表現法を見つけたりとするものである。
 私は気が鬱した時にはよくグワッシュをよくやる。この絵具はフランスのルフランのものがいいようである、アメリカ製のものでガラス管に入った粉末のものもある、これは水で溶解してすぐ使用が出来て、膠分がすでに混入されているので便利である、非常に安価な絵具で小学校の生徒間によく使用されているものである。私が今度の展覧会に出した裸体もこの絵具で描いたものである。効果はルフランのものよりも粉っぽくて美しいので好きである。
 ルフランのグワッシュ絵の具は缶入りで色は確かで美しいが粉っぽい感じがしないのと少しぬり過ぎるとやや光沢が出るので困ることがあるが、しかしまた別の効果が現れるものである。
 用紙は私は茶ボール紙を使用する、これは普通の馬糞紙よりも滑らかであって色もいい。
 粉末の絵具は塗った時と乾いた時とはまったく色が別であって乾くと驚く程あざやかになるものであるからそのつもりをして色の調子を計る必要がある、偶然の効果がまた面白い結果になるのである。
 グワッシュの他には私はいつも例のガラス絵を試みるのであるが、これはガラスの透明から来る心地のよい感じが、例えば定食のあとのアイスクリーム位の価値を自分に与えるもので、一週間ばかりの油絵製作のあとにはちょっとこれをやってみたくなるものである。しかしながら毎日ガラス絵を連続して描くことはまた閉口だ、めしの代用を氷水でやっているようでこれはまたたまらない。
 ガラス絵もやはり偶然の効果を利用することの多い仕事である。すなわちガラスの一方から描いて裏へ絵が現れるのであるから、そこに思いがけない味が出るのである、その味を味わうのがすなわち毎日の食事に飽きた場合の慰めだと考える。
 要するに油絵というものは下地から仕上げにいたるまでああでもない、こうでもないと散々苦労を重ねて終点へまでこぎつけるので、楽しみよりもくるしみが多く、しかも力尽きて降参するという順序になりやすいものであるが、技法のうちに偶然を含む種類のものは、作者に賭博の楽しみを与えるもので失敗も多いが思いがけない儲けもあるものである。[#地から1字上げ](「みづゑ」大正十四年六月)

   触覚の世界とその芸術

 なかなかむずかしい理論で、多少黒田重太郎君風の表題ではあるが、内容はすこぶる平易なものであるからさほど心配する必要はない。
 実は近頃私はちょっとした結膜炎をやって片目を四、五日間休ませていたのだが、目というものはやはり二つないと不便なもので唯一個の目玉では世界万物すべて平面に見えて決して浮き出さない。すなわち立体感がなくなるのだ。立体がわからないからしたがって距離がわからない、片目で絵を描いてみたがトワール迄の距離がはっきりしないので筆の先がトワールへ届き過ぎたり届かなかったりする、まことに頼りないものである。これで両眼から公休を要求でもされた日にはまったく心細いと思った。それで私は触覚のことを考えた。一体目のない動物は触覚だけで生きて行くものだが、人間も盲目になると触覚が異様に発達するものだそうだ。
 めくらに限らずめあきでも目を瞑ってみると、触覚の世界というものがかなりはっきり考えられるものだ。また触覚を味わったり楽しんだりする時には目は隠居をすることが多い。あるいはまた目で眺めて触覚を強める場合もある。電車の
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