てしまってはもう何もかも台なしです。
 人間以外のものでも、真似るということに大変興味を持っているものがあります。狐が美人の真似をします、狸が腹鼓みを打ちます、ある種の鳥類は誰でも知っている通りいろいろの声色を使います。その他、猿あるいは人間でも猫八氏などは素晴らしいものです。
 狸などは昔は鼓の真似事をやったものですが、最近は科学文明の影響を受けて彼らの芸当も変化を来たしました。
 私の知人の家の庭に住む狸は昼の間に聞いておいたいろいろの音響をば夜中になってから復習するそうです。オートバイの爆音、自動車の音などはなかなか上手だといいます。
 オートバイの音は騒々しい嫌な音響でありますが、狸がこの音を真似ると、聞き手は何ともいえない雅味を感じるのです。狸の個性の現れだろうと思います。狸自身も真似る興趣というものを本能的に感じているのでしょう。
 人間も猫八はじめ芸術家達などもいろいろの真似をします。真似は昔から芸術には深く悪縁が絡んでいるもので、真似はいけないと排斥しながらもいろいろな形式においてつきまとって来るものです。これからさきも永久に真似はなくならないことでしょう。
 狐なども苦心の結果、素晴らしい美人と化けすました時に、ある種の人間が彼女のために接吻でもしたとすれば、狐は自分の芸術の迫真の技に思わずほほ笑んで満足したことでしょう。
 こんな天才的な狐が一匹現れると、およそ百の若い狐達はその化け方に感動します。そしてその様式について大いに研究したり、見習ったり、あるいは奥義の伝授を受けるために馳せ参じたりしますでしょう。
 すると今度は彼らの化け方にも種々な様式が発見され、創造されて行くことになります。こうなると化け芸術も進歩発達して行くことになります。ついにはヤヤコシクなって、ちょっと一度は整理する必要ぐらいは起こって来ます。何狐は何派に属するとか、何狐は何派の何々イズムであるとかいうことになって来ます。狐の世界においても、黒田重太郎氏の出現を待たなければならないことになります。
 ところが多くの狐達の中には真似ることの本当の興味を忘れてしまって、様式ばかりを眺めて気をもむ連中が多く輩出してくるかもしれません。あんな連中はもう本当の人間の研究がおろそかになってしまったものですから、一流の美人に化けすましたつもりでいましても、本当の人間はとうていだまされません。美人の裾からはチラチラと毛だらけの尻尾がブラ下がっているのです。
 狐も初めは偶然の思い付きで女に化けてみたものが、ついにはその化け方について苦労をしなければならぬことになって来るのです。化ける興味を本職にやりだしたものだから、こうなってくるのは止むを得ません。そのうちにはある様式を守る集団のいくつかが現れ、一方は王子に一方は伏見にという具合に集まります。そして化け展とか何とかいうのを開催して、この道の進歩発達を計るということになります。そしてお互いに奴らの芸術は何だといい合います。狐の世界もまた多事であります。
 これらも皆真似ることの興味がいろいろと変化して、ヤヤコシクなったものだろうと思います。真似ることの興味も善い意味に使われた場合には人を楽しませるものですが、これが悪用されると大変迷惑を与えます。
 お姫様を喰ってしまってそのお姫様に化けすましたりなどすると、霊鏡に照らされて本性を見破られたりします。或いは贋造紙幣を製造したりする男が出来たり、或いはドランの絵を写真版からコピーして展覧会へ持ち出したりします。その他自分を偉く見せるために、支那の及びもつかぬ聖人の真似をしてみたり、若いのに老人の真似をして通がってみたり、そしてひそかに自己の性慾の強きを嘆いてみたりする悲惨なものも出来て来るのです。
 昔の支那の画家の作にはよく何々の筆意に倣うなどと断ってあるのがありますが、あれは大変気もちのよいものであります。日本の油絵なども(油絵に限りませんが)これを一々断り書きをするようにしたら批評家も、一々霊鏡を持ち出す面倒が省けてよろしいのですけれども。
 しかしながら当今は狐の威力の方が強いので、霊鏡はいつも曇りがちで、なお田舎の散髪屋の鏡同様凸凹だらけのものが多いので、あまりあてには決してなりません。[#地から1字上げ](「アトリエ」大正十三年十二月)

   アトリエ二、三日

 日記などつけたことがありませんので二、三日間の思い出した事柄をちょっと記すことにいたしました。どうも阿呆な話ばかりで相済みません。これでは困る、というような恐れがありますならば、どうか容赦なくお捨て下さい。
 A日Rが戸口へ現れました。長い頭の毛をモシャモシャと引掻きながら「奈良までは奥さん電車賃はいくらですかね」と聞きました。さあなんでも五○銭位と思いますがと答えると「そうですか、すると……」と彼はコール天のズボンから銅貨銀貨を一掴み玄関[#「玄関」は底本では「玄間」]へずらりと並べました。そして一○、二○と数え出しました。「どうも少し足りないんです、奥さん」。はァなるほど、足りませんナ、奥さんは財布から一円出しました。
「こんなに沢山はいらないんですが」と彼はまた頭の毛を引掻きながら金を寄せ集め、ポケットへ捻じ込んで駆け出したそうです。多分ちょっと飲むために。
 B日、広島から二、三度手紙を寄こしたMというのが突然訪れて来ました。まさか唐突にやって来まいと思っていたのが、やって来たのです。白い毛糸の頸巻きをして広島土産の蠣を籠に一杯ぶら下げてぼんやり立っています。大阪には親しいものは一つもないのだそうです。僕の家は二階は一間切り、それも画室になっているし、階下は家のもので占領されていますし、とうてい書生を収容する空間は一つもないのです。Mは夜汽車の睡眠不足と画室のストーブの温かみとで、頭が痛いといい出しました。
 下の部屋は子供が熱を出して寝ているんですが、その隣りへ寝かすことにしました。僕は猫の子が一匹迷いこんで来ても、かなり神経を悩ますのですが、人であってしかも田舎の語で意志もよく通じかねるのですから、これにはまったく弱りました。
 C日、T君が朝やって来ました。この人四十歳位です。もと商売と俳句を兼ねてやっていたもので評判の好人物です。この頃は、また殆ど絵に熱中しているものですが、以前俳人であっただけに何でも気分を味わったり、吸うたりするのが一番好きらしいのです。それでいて、いつもふさいだ顔つきをしています。それは、大切の子供をなくしてからだろうといいます。そうかもしれません、気の毒なのです。
 一年程以前には洋画の材料屋の気分を味わうために、いい場所にちょっと気の利いた家を借りました。開業宣伝のため階上階下に院展の人達の小品を陳列しましたので行ってみますと、下も二階もシンと静まり返っています。これはまた閑寂な展覧会だと思って、二つ三つ絵を眺めていますと、二階から女の笑い声がドッと聞こえて来ました。オヤ、と思って二階へ駆上ってみますと、T君は場所柄だけに遊廓[#「遊廓」は底本では「遊廊」]も近いので、馴染みであった美人四、五名を招待して絵を見せているところです。T君、その中に収まって、展覧会の気分をあくまで吸っているのでした。なかなか立派に出来ましたな、というと、ええあまり入場者もやって来まへんさかい、かえって静かに観賞が出来てよろしゅうおます。なア、思うたよりエエ展覧会[#「展覧会」は底本では「展観会」]やろがな、と芸者達の賛同を求めますと、いつもベストコダックでも提げて歩いているという新しいのが、ほんまにエエ気分だんな、と賞賛しました。
 その後、これでは店の宣伝にもならんということが明らかになりましたので、僕に二科の若い人達の小品展覧会でもしてもらえまいかとのことでした。会場は小さくて感じがいいので、僕と鍋井とで何とか世話をすることにしました。
 その結果はすこぶるよかったのです。五、六日間にちょっと千人近い入場者があったものです。気分の大将キリキリ舞いをして気の毒になったくらいです。店の宣伝も効を奏したわけですが、その後一向店に商品が並ばないので、何を買いに行っても間に合いません。これはまた不思議だと思っていますと、妻君が僕に家の内容を打ち明けて泣き出しました。ナルホドと思いました。
 その後店は夜など早くからガラス戸が閉まっていて、電灯が暗くて商売はしているのかいないのか疑わしい体裁でした。それが柳屋という美術店と向き合っているので、誰かが柳屋の向かいだから幽霊屋ではないかなどとフザケたことを評判する奴もあったくらいです。
 一、二カ月後洋行するという名目のもとに店を畳んでしまいました。いい人だけに僕も非常に気になりますので、何をしにフランスまで行くのですかと聞くと、まァやっぱり絵の研究ですなとのことです。なかなか人物の説明だけがヤヤコシクありましたが、この人がやって来ました。
 そこでこの人物に、書生Mのことを話すと、よろしゅうおます、下宿でっか、心当たりもごわすさかい、と直ぐ引き受けてくれたのでやや安心しました。
 T君は早速下宿の下検分に出かけて行きました。そして、宿をきめて来てくれました。
 D日、下宿の部屋は二畳であって、とうてい絵が描けないというので、Mは以来毎日僕の画室の片隅へ来て何かしらゴソゴソ描きました。がどうも気にかかってなりません。第一僕が何も出来ないのです。それから僕が帽子を描くと彼も帽子を描きます。ラッパを描けばラッパを描きます。花を描けば花を描く。これでは、うるさくて、堪りません。
 そこでデッサン修業ということにして、赤松先生画塾へとりあえず通わせることとして、先ずこの稿を終わります。[#地から1字上げ](「中央美術」大正十三年五月)

   大阪古物の風景

 大阪の町を歩いて、面白いと思える古物の風景が一番たくさん遺っているのは江の子島付近でしょう。この辺は一体に細い掘割がいくつと知れず流れています。百間堀、阿波堀、薩摩堀、京町堀、江戸堀などが、その中でももっとも面白い掘割です。
 私は広い川よりも町の真中の家の尻と尻との間をば窮屈に流れている、この掘割が大変好きです。
 この堀川には狭くて小さな橋がたくさんかかっています。大体、橋というものは広くなればなるほど道路に見えてしまって、橋の感じがなくなるものであります。この辺りの橋こそ、今俺は橋を渡っていると確実に思えます。
 中にも薩摩堀の近くに、名を忘れて残念ですが一つもっとも狭い橋があります。人力車一台ようやくにして通り得るというほどのもので、しかも橋上の眺めはなかなかよろしい。一度記念のために渡っておく価値はあります。今に大大阪というものになると、こんなものはどうかされてしまうかも知れませんから。
 またこの付近には、その掘割の両岸に、とても今の大阪では見失ってしまったような昔の土蔵がずらりと並んでいる七ッ蔵と称する名所もあります。
 それから何といっても、この辺の景色の中へは必ず顔を出して堀川の景色を引き立てている親分は、今の府庁の建物です。あの円屋根は見れば見るほど古めかしく、長閑な形で聞えています。私はこのドームを、その東裏手の茂左衛門橋の上から眺めるのが一番いいと思います。あるいは百間堀、あるいは薩摩堀の豊橋から見ると、実にいい構図になります。最近のアメリカ文化は、あまりこの辺を訪問していませんので気持がよろしい。しかし一世紀前のエキゾチックな風景です。
 この府庁の建物は明治の初めに出来た唯一の西洋館だといいます。この建物は古くてもう役に立たなくなったので、取りこぼつのだとか噂に聞きましたが、それが事実ならば惜しい事実であります。
 大阪人はこんな古臭い円屋根など、ゆっくり眺めたことはないのでしょうけれども、この円屋根がなくなったら、この辺りの風景は、それこそ東海道から富士山が凹んでしまったくらいの退屈な光景になってしまうことでしょう。
 とにかくこの付近をぶらぶら歩いていると、古物の大阪が随所に、確かに残っているので愉快です。[#この段落底本
前へ 次へ
全17ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング