えも冬において熱くなるから冬の地上は陽気で満ちているのかも知れない。
 それでわれわれ骨人とか半透明体なるものは天上陽気の夏こそ正によろしいが、常夏《とこなつ》の国ではない我が日本国にあっては平均すると寒い期間、即ち影をひそめていなければならない期間の方が、多いようだから従って苦労も多い、そろそろと世も野分《のわき》の時分ともなれば、かの秋風が何処《どこ》からともなく吹き初めて来る、すると早や幽霊や骨人や蜻蛉や氷屋は逃げ支度《じたく》だ。
 急に冷気を覚える朝など、蜻蛉が凍えて地に落ちているのをしばしば見る事がある、私は身につまされて憐れに思い、拾って帰って火鉢や手で温めてやると急に元気づいて部屋中を飛び廻る事があるが、しかし、何んといっても天上陰気が回《め》ぐって来たのだから致方《いたしかた》がない、結局死骸となって横《よこた》わってしまう。
 私は蜻蛉の如く秋になれば死骸とはなりはしないが、もう心の奥から変な冷気が込み上って来るのを覚える、心細さは限りないのである。
 かくて、秋から冬、晩春から初夏まで、私は寒い寒いといいつづけて暮すのである、寒くないのが夏だけといっていい位いだ。
 その真夏でさえも、私は印度洋で風邪《かぜ》を引いた事を覚えている、八月の印度洋は毎日梅雨の如く湿気と風とで陰鬱を極めるので、とうとう風邪を引いて笑われた、骨人の悲しみは冷気と陰気にある。

 かような訳から私はまた夏を好く以外、すべて温そうなもの、陽気なもの、明るいもの、肥えたもの、脂肪多き女と食物、豚のカツレツ、ストーブ、火、火鉢、湯たんぽ、炬燵《こたつ》、毛織物、締め切った障子、朱、紅、の色などいうものを好みなつかしむ心|甚《はなは》だしい。
 従ってその反対なもの即ちすべての陰気、骨だらけの女や万《よろず》河魚類、すし、吸物《すいもの》、さしみ、あらい、摺《す》れ枯《から》した心、日本服など頗る閉口するのである。
 日本服といえば、私は決して嫌《きらい》なわけではないが、冬において私は日本服を着るのに際して、是非とも厚いシャツ二枚、ズボン下二枚を重ねて着込まなければならないのであるから悲しいのだ、大体和服の下へシャツを着用する事が既に間違っているのだ、袖口《そでぐち》から毛だらけのシャツがはみ出している事は考えただけでも堪《たま》らない、怪《け》しからず不体裁ではないか。
 私は日本服を着る以上は、正式にシャツ類を排斥したいと思う、ところでシャツなくては私の冬はあまりに残酷なのだからやむをえない、私は洋服を主として用いる、その洋服でもあまりの厚着はいけないそうだが、日本服の不体裁に比して遥《はる》かにましだと思う。
 なお和服をシャツなしで、われわれ骨人が着用に及ぶと、かの痛ましくも細い腕がニョキニョキと現われるので、如何にも気兼ねであって、電車の釣革などは平気ではとても握っていられない気がする。
 私はしばしば電車の釣革にぶら下る女の何本かの腕を観賞する事がある、時には私同様骨張ったいけないものもあるが、先ず大概はわれわれ骨人が憧憬《どうけい》してやまないところの、充分な腕を並べていて、その陽気のために、羨《うらや》ましくも悩ましい気に打《うた》れるのである。
 結局骨人は綿入を重ねて火鉢を抱き、股引《ももひき》を裾《すそ》から二、三寸はみ出させて、牛肉のすき焼きをたべるのだから残念ながら粋《いき》とか通《つう》とかという方面からいえば、三|文《もん》の価値もないのであるが、といって、私の心が嫌うものを私が勝手にどうする訳にも行かないのだから万事致方のない事である、やはり寒気、冷気、陰気、骨、皆禁物だ、だから魚は鯨、鯨は魚ではないそうだが……あるいはまぐろ[#「まぐろ」に傍点]位いに止《とど》まり、あゆ[#「あゆ」に傍点]や鯉等は針を食する感があっていけなく骨に近い女がいけなく、そして骨のない野菜と果実とチョコレートと芋《いも》と豆腐と牛豚に好意を持つ次第である。

   M君のテンプラ屋について

 昔から器用貧乏と申しまして、ちょっとした絵の一つくらいは描けたり犬小屋くらいはちょっと半日で体裁のいいのを作ってみせたり、ちょっと歌も作れたり、あるいは音曲、手踊、発明にいたるまで何に限らず一応はやってみせるという風の人物はかなり多いものであります。
 何でもちょっとはやれるということが大変便利であるところから、その近所両隣や町内では、しごく重宝がられます。例えば初午の行燈へちょっと何か描け、浄瑠璃の会をやるからビラ一つ書いてんか、ちょっと万さん雨の漏り止めてんか、ちょっと自転車の空気入れてくれ、アンテナ張ってくれ、鼠を捕えてくれ、余興に出てくれといった風の雑件をどしどし持ち込みます。万さんもこちらが忙しいのでこれが本職かと思い出し、自分の家のことはさておき、町内を走り廻るという、妙なことになったりするのであります。
 ところが本当の看板屋、本当のラジオ屋、本当の大工、本当の絵描き、本当の自転車屋ではありませんから、その手間賃を誰一人として支払うものがありません。結局、万さんはよい人やという結論が町内へ行渡ってしまうだけであります。よほどの親譲りの財産でもない限り、万さんは貧乏せざるを得ません。私はまったく万さんを気の毒に思うのであります。同時にただ使っておきながらええ人やといっている町内の嬶などいうものは随分狡猾なものだと私は常に思うているのです。
 しかしながら器用人というものは何といっても本当の仕事が出来ないのが弱味です。商売にならないのも無理はありません。芸術家の心だけを多少持っているところがかえって不幸の種かも知れません。
 私の知人M君もこの万さんの一人でありまして、初午の絵行灯に雁次郎の似顔でも描かせばなかなか稚気愛すべきものを描きます。ところでM君も徳川末期あたりに生まれていればまず一日を床屋で暮していても、町内を走り廻っていても、この世だけは無事に暮せたのでしょうけれども、この現代はあまりに生活が深酷過ぎますので堪りません。彼には妻子があるのですから、なかなかええ人やという評判くらいでは食っては行けないのです。M君は止むを得ず保険会社の勧誘員を勤めました。ところがちょっと絵心でもあるくらいのM君ですから、やはり芸術家の潔癖な心得だけは、心の片隅に持っていますから、勧めたくもない保険など他人へ強いてみたりする下等な行いはいかにも出来難いのでありました。M君はある時私なら馴染でもあるし話やすいと思ってか、勧誘にやって来ました。私はM君には気の毒と思いましたが、大体私は何年か後の金千円という金に興味など少しも持てないのだから厭だといって断りました。するとM君はなるほどそれもそうですなと同感して、すぐ帰ってしまいました。それくらいよくものの判った人格者であります。
 それからM君は中之島公園のベンチへ腰かけて、もっと自分の趣味と自力でやれる公明正大な商売はないかと考えたのでした。数日の後彼はテンプラ屋を決心しました。テンプラは彼の好物でもあるし資本もあまりかからない関係からかも知れません。
 しかし妻君は大変反対しました。妻君の心には芸術がありませんから、亭主のテンプラ屋は駄目だという計算が直ちにつくものとみえます。必ずたちまちにして棒折ると予言しました。M君はどうあっても成功してみせると申しました。やるなら勝手にやれということになったのであります。
 資本金二百円のテンプラの出し店が、ある場末の町角で始まったのでした。もちろん狭い店だけ借りたことですから、M君は毎朝ここへ一人で通うのであります。不幸なことに妻君は元来怒っていますから、決して手伝わない上、昼めしの弁当さえ彼のために運んでやらないのでした。これは少しひどいと思います。
 ところでちょっと売れたのは最初の一日だけで次の日から揚げたテンプラは積まれたまま冷めて行くのでありました。蝿が随分たかりました。
 M君の店の向いが氷屋でした。M君は毎日昼になると氷水を注文し、自分で揚げたテンプラを自分でたべました。よく芸術家が自分の芸術は自分だけが味わうべきものだといって、作品を皆押入れへ積んでおくようなものであります。
 あまり毎日テンプラと氷をたべたので、とうとう、M君は腸カタルを起こして寝てしまいました。ようやく全快して再び冷めたる山を築いてみましたが、とうてい沢正の芝居を五等席から覗いているぐらいの興趣すらも起こらないのでした。
 悪い事は重なるものです。ある晩もう店をしまうつもりで、ふと煮立った油の鍋を両手で持ち上げた時どうしたことか柵にあった牛乳ビンが真逆様に油の中へ落ち込んだのであります。M君は両手に大火傷してまたもや寝込みました。そこでテンプラ屋は妻君の計算通りの答がちゃんと現れまして、ちょうど一カ月で棒を折ってしまいました。
 以来M君は何物かを拾うべき体裁で、毎朝家を出まして町内の薬屋の店へ腰をおろします。ここで同志集まって何するともなく往来を眺めたり、ちょっと古新聞へ役者の似顔を描いてみたりして、この世と彼の世帯の辛さから、暫時休憩しているのでありました。私はこの好人物を一生涯休憩させておきたいと思いますが、どうも彼の家族と、一九二六年という年代がそれを許すまいと思われますので、何とも致し方がありません。しかし私は町内にM君のような人がぼんやりと存在していないと、大変世の中が味なく思えて堪りません。[#地から1字上げ](「週間朝日」昭和二年一月)

   怪説絹布団

 この話は、しばしば友人仲間へは伝えた事のある古い話ではありますが、丁度昨今時候も初秋に入るに及び、偶然思い出しましたまま書き記《しる》す次第であります。
 大体世の中で何が一番怖ろしいと申しましても人間位い怖ろしいものはありません、妖怪や狐狸変化《こりへんげ》の類に噛殺《かみころ》されたものは尠《すくな》いが、大概の人間は、常に人間に悩まされているようであります。
 私が美校を出て三、四年うろうろしていた或秋のことでした、私は風景写生がして見たさに奈良へまいりまして、そこで或人の紹介で金持ちの後家さんの離座敷を借受ける事になりました。
 その家は木辻遊廓の近くにありまして、奈良特有の低い屋根で蔽《おお》われた暗い家でした、主人の後家さんというのは、何んでも亭主にも養子にも逃られたという事で、今は女中も置ない完全な一人暮しでありました、年は六十幾歳という、頗《すこぶ》る萎《しな》びた老人でありました。
 ところが、初めて私がその座敷へ通った時、婆さんは私を案内しながら、埃《ほこり》のつもった雨戸を開けたり蜘蛛の巣を払ったりしてくれました、その時私はつくづくと婆さんを眺めて、少しおかしいなと思いました、その顔というのが何か草鞋《わらじ》の裏といった形相《ぎょうそう》で、無数の皺《しわ》の中には白粉《おしろい》がかたまっているようでした、それから頭の構造が頗るややこしいのです。先ず額に一本の針金が渡されていて、情けない毛髪がそれから生じているのです、その絶頂には小さな丸髷《まるまげ》が一つ乗っているのでした、その髪の下は完全な禿頭《はげあたま》で、その禿頭にはくろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]がベタベタと瘡蓋《かさぶた》の如く一面に塗られていて、到底じっとは見ていられない穢《きたな》さでありました。
 あれが妖怪狐狸の類ならば、こんな下手《へた》な化け方はしないでしょうが、そこが人間の情けなさから頗る深酷に手古摺《てこず》っているのでありました。私は婆さんが側へ来ると何か異様の毒気を感じるのでした。
 しかしその座敷が閑静でいいのと、紹介してくれた人への義理もある処から、まあ不気味な婆さん位いは、我《が》まんする事にしました。
 ところがまたこの家には電燈が一つもないのです、婆さんは古ぼけたランプを一つよそから借りて来てくれました、すると一体婆さん自身はどうしているのかと思って見ますと、庭を隔てた母屋《おもや》の彼女の部屋には何んと、唯一つのカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が点
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