見ると何も毛虫やいも虫が、人間を食い殺すものでもなし、安全なものであるが、腹の虫が厭がると全く身の毛がよ立つものなのだ。
私は子供の時から、蜘蛛が大嫌いで、大人となった今もなお、蜘蛛をおそれる程度においては、子供の時代と少しの変化もない、これはおそらく、私にとっては一生涯の苦の種であろう。
蜘蛛といっても、けし粒ぐらいの奴から、大きいのは直径五、六寸あるのがある、笑談じゃない、それは気の迷いだろうと笑う人があるかも知れないが、事実あるのだからいたし方がない。しかしこの大蜘蛛は関東に少く関西に多いのだ。それで東京の人には説明しても了解のゆかぬ人が多い。見たことがないのだから、これをただ一目でも見て置いてくれないと私に同情が出来ないであろう。
この蜘蛛は決して巣をかけないで、天井や壁をのそりのそりと這《は》い廻るのだ、今私は這い廻るとここへ書いたがただこう書いただけでも、このペンの先から厭な電気が私の神経の中枢へ伝わるのを感ずるくらい、むしが好かないのである。
ところでこのおそるべく厭な大蜘蛛が現われた時の、私の家庭はそれこそ殺気立つのだ、子供の時分は、さア早く来てくれ、蜘蛛や蜘蛛やと逃げ出せば、誰れかが処置をつけてくれたが、目下私が一番大人であるから、その体面上からいっても、退治《たいじ》るのは私の責任でまた退治るには、女中や妻君に任せておけないのだ。どうも手ぬるくていけない。ところで私がやるとすると、一生懸命でありすぎるため、しばしば狙いをはずす。私は蝿《はえ》たたきを握っておそるおそる蜘蛛に近づくのであるが、その八本の足を雄大に拡げて、どす黒くまるい腹を運ばせて、ヘッドライトの眼光をピカピカさせている雄姿を見ると何んとしても私の手もとは狂わざるを得ない、私はすぐ尻をくるりと、高くまくしあげるのだ、これは万一、足もとへ飛んで来た時、逃げ出すのに都合よいためである。私はいつも大江山の頼光を想い浮べて、悲壮な感にさえ打たれる。
無我夢中になぐりつけ、蝿たたきは、そこへ投げ捨てたまま跣足《はだし》でかどへ飛出すのである。それが死んだか逃げたかを、見きわめるのは妻君および女中の役目だ、が幸《さいわい》にして不気味な、グロテスクな残骸が落ちていたとすれば、まず安心で、女中が新聞紙に包んで遠い場所へ捨てにゆくのだ。この道筋が一歩間違って箪笥《たんす》の後へでも逃げ込もうものなら、私はもうその部屋では眠ることは出来ないという厄介なことになってしまうのだ。それで私は或る時近所の小僧と特約して一匹十銭で殺してもらうことにした、鼠よりよほど値がよいので喜んでとりに来てくれたが、あまり蜘蛛が出ない日が続くと、小僧は儲《もう》けがないのでよそから大きな奴の密輸入を企てようとしたので、これは危険だからやめにした。
私がさように嫌う蜘蛛でさえ手にまるめ込んで愛撫するかの如く爪《つま》くる人もあるからおかしい、もし蜘蛛の男女が恋をしたとしたらやはり野の花よとか、美しい背の君よとか考えることだろうと思って私は面白い自然のからくりに感心しているのである。
紹介
私には絵描きという言葉が妙に恐ろしくいやに響くのだ。それは一つには私が大阪という土地にのみ住んでいて、大阪人にのみ取り囲まれていたために、とくにこんなことを強く感じさせられるようになったのかも知れない。
私は、私の友人の家庭や、友人とともにレストランやカフェーあるいは道路の上で、その友人のまた友人というのに紹介されることがしばしばある。そんな場合、私の友人の友人がわれわれ同様といった格の人ででもあるとか、あるいは謙譲にして聡明な紳士であるとか、あるいは学生であるとか、絵の好きなお嬢さんであるとか、あるいは文士であるとかいったふうのものであれば、それはまことに何でもない。かえって非常に愉快なのではあるのだが、もしもその友人の友人というのが多少の金持ちであって、絵の一枚や二枚はいつでも買えば買える身分の人ででもあった場合には、私は随分嫌な思いをしばしばさせられることがあるのだ。
その友人の友人という金持ちらしい紳士はマントのカワウソの襟から脂切った顔を出しているといったふうの人が多いのだ。そして私の友人はこの人は絵を描かれる人でとか、絵描きさんでとかいって紹介するのだ。私は慄《ぞっ》と悪寒を感じるのだ、私に忍術の心得があったら、こんな場合、ドロンといって消滅してしまうところなのだが、松之助でないから駄目だ。
かくしておめおめと紹介されてしまうや否や、相手の脂肪でむくんだその顔面には、何ともいえない奇妙な表情が漲るのだ。例えば、これは弱ったといったふうな、見下げたような、自己を護ろうとするような、要するにきわめて不潔にして下等な表情なのだ。そして極力自分は芸術に対しては無関係であって無理解で無趣味だということを説明して話をそらしてしまうのである。
私は今までに幾度となくこの種の表情を見た。以来私は非常に芸術に無関係らしいところの、相当の年輩の紳士に紹介されることを怖れるようになった。もう止してくれ、止してくれ、と心で叫んでいるうちに、何も知らない私の友人は手早く紹介してしまうのである。そしてあの嫌な表情に出会うのだ。潔癖で強情で神経の尖った絵描きはこの顔を見て山へ隠れてしまいたくなるのだ。神経の太いある種の芸術家はこのいやな顔からこそうまく金を引き出そうと考えるのである。
雑念
私は算術という学科が一等嫌だった。如何に考え直しても興味がもてないのだった。先生に叱《しか》られても、親父《おやじ》から小言《こごと》を食っても、落第しかかっても、一向好きになれなかったのみならず、興味はいよいよ退散する一方であった。
5+5が10で、先生がやって生徒がやっても、山本がやっても、木村がやっても、10となるのだ。10とならぬ時には落第するのだからつまらない。
私は5+5を羽左衛門《うざえもん》がやると100となったり、延若《えんじゃく》がやると55となったり、天勝《てんかつ》がやると消え失《う》せたりするような事を大《おおい》に面白がる性分《しょうぶん》なのである。
何故、この世の中にこんな小うるさい学科が存在して私を悩ますのかと思った。私の心に厭世《えんせい》という暗い芽を吹き出さしめたのは、算術であったといっていい位いだ。
数学の書物《しょもつ》と来ると、見るのも不愉快だった。安物で、まっ黒で、不体裁で、不気味で、全く私はこの黒い本を見ると、死神を思い出し、私の嫌な蜘蛛《くも》を思うのが常《つね》であった。
算術の問題というものがまた実に面白くないものだ。大工《だいく》ありと来るのだ、一日に何時間を働くといった、事が書いてある。当時十二や十三歳の小供が、大工の生活などに興味が持てるはずがない、それがまた賃金の問題だからなおさら無関係だ。大工が何時間働こうと汽車がいくら走ろうと、玄米が何銭であろうと、私の知った事ではないという心が、早速、私の腹の底へ横《よこた》わるのであった。いくらの買物をして釣銭がどうとかこうとか、全くそんなケチな事はどうだっていい、釣銭はいらないよといった心が横わり出すと最早《もは》や到底私の力でも先生の力でも親の力においてさえも、この横わりたるこの心は、動いてはくれないのだ。従ってこの問題を解こうなどという柔順な気もちには決してなれないのだった。
その上、私はまた小さな時分から、いろいろな雑念に悩まされる人間であった。雑念といってもいろいろとあるが、一例を挙げると、今は田舎にのみ残っている処の、祭礼に引き出す地車というものがあった。この囃子《はやし》が私は大好きだった。鉦と太鼓でチキチン、コンコン、といった調子が連続するのだ。それから芦辺《あしべ》踊りとか都踊りの囃子も大好きだった。ずらりと並んだ舞子たちが、キラキラと光った鉦を揃《そろ》えてたたくのだ、チャンチキチン、コンコン、というのだ。これが馬鹿に華やかで気に入って、心の底へ浸《し》み込んでしまったのであった。
私はこの、チャンチキチンのために、ますます算術が馬鹿々々しくなって来るのであった。
大工あり、日に何時間と読むうちに、何んだつまらないと思うと同時に、チャンチキチンの囃子が猛烈に始まるのだった。こうなると問題も試験もくそもなく、ただ私はチャンチキチン、なのだ。
先生はさように賑《にぎ》やかな囃子が、私の心に始まっているとは知らないから、無遠慮にも次の問題を小出《こいで》と言って、しばしば難題を吹きかけるのであった。その瞬間、芦辺踊りもちょっと鳴りやむのであるが、出来ませんといってこの災難を追払うと同時に、またもやチャンチキチンだ。
この地車や踊りの囃子はとうとう私の親父の臨終にまでも襲来したのには、フとわれながら厭な気がした。親父の臨終において、チャンチキチンなど考えているべきはずではないではないかと私は私の囃子|方《かた》へ、ちょっと注意をしてやった。しかし、私は人間の心というものは、かかる大変に押詰った場合において、なお幾分の空地があるという事が、かえって甚《はなは》だ悲しく思われた。
先ずそんな事で、私はとうとう算術を断念してしまった。一切やらぬ事と定《き》めた。その代り多少とも他の学科へ力を入れる事にして、図画で百点を取る事にきめた。要するに平均点で進級するという方法なのだ。これは案外成功だった。やっとの思いで、美術学校へ入学した時、私は初めて算術から解放された。私の死ぬまで算術がないんだなと思った時、私の嫌いな、世界中の蜘蛛《くも》が一時に自殺してくれたような心地がした。もう私の一生涯はチャンチキチンでも、ドンドンでも何んでも来いだと思った。
今、私はこの年輩となって、なお阿呆《あほ》らしくも、この囃子連中は芝居のチョボの如く、私の頭の一隅《いちぐう》に控えている。そして或る重要な要件であって、しかも自分にとっては頗《すこぶ》る興味がないといった場面においては、必ずこの連中は出演に及ぶのである。
それで私は重要な用件を聞き洩《もら》したり頼まれた用事を皆忘れてしまったりしてしまうのである。
最近の閑談
〇
袋にもいろいろある、紙袋、酒袋、オペラバッグ、四季袋、足袋、カポタングレース等。しかし私は最近珍らしいケチ[#「ケチ」に傍点]な袋を見た。
それは大阪の芸術家や紳士を集めた或《ある》招待会の席上での事だった。一人の工芸家らしい男は、運ばれる料理の主要なもの、例えばコロッケの塊《かたま》りなどには決して手をつけないでその周囲のお添えものばかり食べるのであった、それは多分、食慾がないからの事かと思っていた、すると不意にテーブルの下から丁度海水浴に持参するような手提袋《てさげぶくろ》を取り出し、手早くコロッケをその中へねじ込んでしまったのである、その他残ったものは何に限らずこの袋へそっとほり込んでしまうのであった、その手つきがあざやかである処から察してこんな事の常習者らしく思われた、われわれの連中はただぼんやりとその深酷《しんこく》な感じに打《うた》れて静かに眺めているのであった。
私はこの男の翌日をちょっと考えて見た、袋から吐出《はきだ》されたゴチャゴチャとしたコロッケ、カツレツ、ジャガイモの類を妻君《さいくん》と二人でつくづくと眺める事だろう、どうせ二、三人の小供も覗《のぞ》きに来る事かも知れない、老母というのも、ゆうべの御馳走《ごちそう》は何んやと次の一間よりまろび出てくるだろう、然る処へ不意に猫の奴が現われて何か一つ浚《さら》って走るかも知れない。この猫をどやしつけて取返し、これを煮《た》き直して、小供は学校行きの弁当に入れてもらい、家では今日はお父さんのお手柄で久しぶりの洋食や、という事になるのかも知れない、などと私は馬鹿気《ばかげ》た想像をめぐらした。
席を立ってから暫時この袋の噂《うわさ》で賑《にぎや》かだった。或|物識《ものし》りの説では、この頃あの袋は随分大阪では流行しているのだそうだ、名も宴
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