すっ[#「すっ」に傍点]ともいえない上に勿論《もちろん》何をいわれても一切聞えなかった。
 危ない電車道を数人のめくら[#「めくら」に傍点]がにこにこと笑いながら横切るのを、よく見かける如く、われわれは手を引き合って、無言のまま、にこにこと巴里へ到着してしまったものだった。
 言葉を知らないものにとっては、初めのうちは世界の都、巴里も、高野《こうや》の奥の院位いの淋《さび》しさであった。カフェーやレストウランで、大勢が何かやっているが、自分には何の影響もない事だった。毎朝新聞屋の呼声がするが、それも何の影響もなかった。もしその記事の中に明日、巴里にいる日本人を皆死刑に処すと記されてあっても、少しく驚かない訳だ。世界中が黙っているのと同じ事だから全く静寂で、長閑《のどか》で、ただ何かごたごたと音がしているだけであった。
 その代り、幸福が訪問しても、わからずにすんでしまう事もある。
 私が南仏カニューの安宿に二、三ケ月滞在していた頃の事だった。カニューは、ルノアルの別荘のある美しい村である。地中海に面した、暖かい処であるから、冬になると巴里から沢山の画家がやってくるらしい。当時もこの宿に
前へ 次へ
全166ページ中162ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング