。私は実行しなかったけれど幸にして、ほそぼそながらも死にはしなかった。
 ところが海水浴や水泳は静坐法よりも面白いものと見えて一向下火にならないので弱っている。大《おおい》に盛んに泳いで見る事は頗《すこぶ》る海国男子として結構な事であるが、人は自分のすきな事を他人にすすめたがるものなのだ。それは静坐法と同様だ。「それはききめがありますよ、一週間でこれこの通り」と下腹をわざわざあけて不愉快な臍《へそ》を見せるのだ。私は当時随分沢山の臍の種類を見せてもらった。
 この、勧めたがるという事から、私の水難が起こって来るのである。昔は中学時代において散々悩まされたのだ。これは体育のためとあって、勧めるというよりもむしろ強制的である。濡《ぬ》れた褌《ふんどし》をぶら下げて、暑い夕日の中を帰ってくる時の気色《きしょく》の悪さは、実に厭世《えんせい》の感を少年の心に目醒《めざ》めさせた。従って私は水泳の時間は欠席するか蛤《はまぐり》を漁《あさ》る事によって、せめての鬱晴《うさば》らしとしたものであった。
 私の妻は何々水練場とかへ通っていたというので多少の心得がある処から夏になると海へ行きたがるのだ、
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