でさえも、会話は全く厭《いと》う思いをしつづけたものだった。生れついて日本語でさえなかなか考えても口へ出ないのに、日常何んの必要もない英語がさようにすらすらと出る訳はないのだった。ところでフランス語だ。今度は必要だという上から考えて、私はやむをえず近所の語学の先生の許《もと》へ通って漸《ようや》く読本《とくほん》の一冊を習得してしまったのだ。それと同時に乗船の日が到来したのだった。
船へ乗って見ると、あらゆる日常生活が激変した、かつて着た事のない洋服を着たものだからネックタイが一人で結べなかった。私は毎朝同室の医者と政治家とに交々《こもごも》結んでもらったものである。それから日に日に新らしい事物に出会う応接と、その船には九人の画家が乗り合せた関係上なかなか以《もっ》て語学の勉強どころの騒ぎではなかった。とうとうマルセイユへ到着するまで、読本巻の一は、カバンの底へ組敷《くみしか》れたまま、印度洋の湿気でベトベトになって巴里《パリ》の下宿屋の三階で初めて現れた。
さような不勉強から、折角習ったフランス語も船中で全く奇麗《きれい》に忘却してしまって、上陸の際はぐっ[#「ぐっ」に傍点]ともすっ[#「すっ」に傍点]ともいえない上に勿論《もちろん》何をいわれても一切聞えなかった。
危ない電車道を数人のめくら[#「めくら」に傍点]がにこにこと笑いながら横切るのを、よく見かける如く、われわれは手を引き合って、無言のまま、にこにこと巴里へ到着してしまったものだった。
言葉を知らないものにとっては、初めのうちは世界の都、巴里も、高野《こうや》の奥の院位いの淋《さび》しさであった。カフェーやレストウランで、大勢が何かやっているが、自分には何の影響もない事だった。毎朝新聞屋の呼声がするが、それも何の影響もなかった。もしその記事の中に明日、巴里にいる日本人を皆死刑に処すと記されてあっても、少しく驚かない訳だ。世界中が黙っているのと同じ事だから全く静寂で、長閑《のどか》で、ただ何かごたごたと音がしているだけであった。
その代り、幸福が訪問しても、わからずにすんでしまう事もある。
私が南仏カニューの安宿に二、三ケ月滞在していた頃の事だった。カニューは、ルノアルの別荘のある美しい村である。地中海に面した、暖かい処であるから、冬になると巴里から沢山の画家がやってくるらしい。当時もこの宿に硲《はざま》君も正宗《まさむね》氏なども来ていて、毎日近くのシャトウやオリーブの林を描きに出かけたものだった。正月だというのに外套《がいとう》も着ずに写生が出来るのだから結構だった。
私たちのその安宿というのは、真《まこ》とに田舎風の古めかしい家だった。この宿にジョセフィンという女中がいた。アルサスの女だといって自慢をしていたが大柄な男のような女で鼻下には多少の口髭《くちひげ》もあって、あまり美しいとは考えられなかった。しかしアルサスの女は大変美しいのだと彼女は常にいっていた。それが毎朝、カフェーとパンを私の枕《まくら》もとへ運んだり部屋の掃除に来たりした、随分よく働く女でかなり親切にもしてくれた。
或日、彼女は部屋の掃除にやって来て、私の写生帖へ何か書き記して見せるのであった。私は少しもそれが読めないし、面倒臭くもあったので、ただいい加減の返事をしてあしらっていたものだ。すると彼女は、よく活動写真で、西洋人が困ったとか弱った場合によくする処の両肩を上げて頸《くび》を少しかしげる表情をしながら何かしきりにぶつぶついっていたがとうとう彼女はあきらめて出て行ってしまった。私には何の事かさっぱりわからなかった。私はただ、私はわからないという、私の一番|上手《じょうず》なフランス語を繰返して置いた事を記憶する。
以来、私はその事について、何もかも忘れてしまってもう四、五年にもなるが、最近私の書棚を掃除していた時、偶然にも、その折の写生帖が出て来たので、カニューの事を思い出しながら頁を繰っていると、ふとその時ジョセフィンが記した筆蹟が現れたので、彼奴《あいつ》は何をいったのかと思ってつくづくと読んで見ると、それは正《まさ》しく、私は心からあなたを愛するという意味の言葉であった。なるほどあの弱った表情は、なるほどと思い当った。今頃これがわかった[#「わかった」に傍点]のでは大変遅過ぎた。しかしながら、これはわからないので幸だった、もしそれが読めたら何んとか返事をしなくてはならないはずだ。私もあなたが好きだともいえないし、私は嫌《きらい》だといったら怒るかも知れないし、先ず一苦労せねばならない処だった。それにしても、愛するという文字が読めなかったとは、よほどの私は無学であったと考える。私は帰郷病に罹《かか》ったはずだ。
底本:「小出楢重随筆集」岩波文庫、岩波書店
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