算が直ちにつくものとみえます。必ずたちまちにして棒折ると予言しました。M君はどうあっても成功してみせると申しました。やるなら勝手にやれということになったのであります。
 資本金二百円のテンプラの出し店が、ある場末の町角で始まったのでした。もちろん狭い店だけ借りたことですから、M君は毎朝ここへ一人で通うのであります。不幸なことに妻君は元来怒っていますから、決して手伝わない上、昼めしの弁当さえ彼のために運んでやらないのでした。これは少しひどいと思います。
 ところでちょっと売れたのは最初の一日だけで次の日から揚げたテンプラは積まれたまま冷めて行くのでありました。蝿が随分たかりました。
 M君の店の向いが氷屋でした。M君は毎日昼になると氷水を注文し、自分で揚げたテンプラを自分でたべました。よく芸術家が自分の芸術は自分だけが味わうべきものだといって、作品を皆押入れへ積んでおくようなものであります。
 あまり毎日テンプラと氷をたべたので、とうとう、M君は腸カタルを起こして寝てしまいました。ようやく全快して再び冷めたる山を築いてみましたが、とうてい沢正の芝居を五等席から覗いているぐらいの興趣すらも起こらないのでした。
 悪い事は重なるものです。ある晩もう店をしまうつもりで、ふと煮立った油の鍋を両手で持ち上げた時どうしたことか柵にあった牛乳ビンが真逆様に油の中へ落ち込んだのであります。M君は両手に大火傷してまたもや寝込みました。そこでテンプラ屋は妻君の計算通りの答がちゃんと現れまして、ちょうど一カ月で棒を折ってしまいました。
 以来M君は何物かを拾うべき体裁で、毎朝家を出まして町内の薬屋の店へ腰をおろします。ここで同志集まって何するともなく往来を眺めたり、ちょっと古新聞へ役者の似顔を描いてみたりして、この世と彼の世帯の辛さから、暫時休憩しているのでありました。私はこの好人物を一生涯休憩させておきたいと思いますが、どうも彼の家族と、一九二六年という年代がそれを許すまいと思われますので、何とも致し方がありません。しかし私は町内にM君のような人がぼんやりと存在していないと、大変世の中が味なく思えて堪りません。[#地から1字上げ](「週間朝日」昭和二年一月)

   怪説絹布団

 この話は、しばしば友人仲間へは伝えた事のある古い話ではありますが、丁度昨今時候も初秋に入るに及び、偶然思い出しましたまま書き記《しる》す次第であります。
 大体世の中で何が一番怖ろしいと申しましても人間位い怖ろしいものはありません、妖怪や狐狸変化《こりへんげ》の類に噛殺《かみころ》されたものは尠《すくな》いが、大概の人間は、常に人間に悩まされているようであります。
 私が美校を出て三、四年うろうろしていた或秋のことでした、私は風景写生がして見たさに奈良へまいりまして、そこで或人の紹介で金持ちの後家さんの離座敷を借受ける事になりました。
 その家は木辻遊廓の近くにありまして、奈良特有の低い屋根で蔽《おお》われた暗い家でした、主人の後家さんというのは、何んでも亭主にも養子にも逃られたという事で、今は女中も置ない完全な一人暮しでありました、年は六十幾歳という、頗《すこぶ》る萎《しな》びた老人でありました。
 ところが、初めて私がその座敷へ通った時、婆さんは私を案内しながら、埃《ほこり》のつもった雨戸を開けたり蜘蛛の巣を払ったりしてくれました、その時私はつくづくと婆さんを眺めて、少しおかしいなと思いました、その顔というのが何か草鞋《わらじ》の裏といった形相《ぎょうそう》で、無数の皺《しわ》の中には白粉《おしろい》がかたまっているようでした、それから頭の構造が頗るややこしいのです。先ず額に一本の針金が渡されていて、情けない毛髪がそれから生じているのです、その絶頂には小さな丸髷《まるまげ》が一つ乗っているのでした、その髪の下は完全な禿頭《はげあたま》で、その禿頭にはくろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]がベタベタと瘡蓋《かさぶた》の如く一面に塗られていて、到底じっとは見ていられない穢《きたな》さでありました。
 あれが妖怪狐狸の類ならば、こんな下手《へた》な化け方はしないでしょうが、そこが人間の情けなさから頗る深酷に手古摺《てこず》っているのでありました。私は婆さんが側へ来ると何か異様の毒気を感じるのでした。
 しかしその座敷が閑静でいいのと、紹介してくれた人への義理もある処から、まあ不気味な婆さん位いは、我《が》まんする事にしました。
 ところがまたこの家には電燈が一つもないのです、婆さんは古ぼけたランプを一つよそから借りて来てくれました、すると一体婆さん自身はどうしているのかと思って見ますと、庭を隔てた母屋《おもや》の彼女の部屋には何んと、唯一つのカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が点
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