《とも》っているだけでした、そして彼女の草鞋の横顔を、かすかに照しているのでした。
私は少し心細くなったので、もう写生などやめにして逃げて帰ろうかとも思いながらランプの火を眺めていました、すると草鞋の裏が私の前へやって来ました、婆さんは自身の身の上について何か沢山|饒舌《しゃべ》った末、あんたはほんまにきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]なたちやな、あんまり勉強すると肩が凝《こ》るやろといいました、私は全く肩を凝らす性分なのですから、はあ、と答えると、わしがちょっと揉《も》んでやろというのです、ランプの影からもう細い手が二本出ています。大体この家には私とこの草鞋の裏と二人きりしかいないのですから、助けてくれと叫んでも誰一人出てくれるものはありません、どうも都合が悪いと思いましたが逃げる訳にも行かず、私は丹田《たんでん》に力を込めて目をつぶって揉んでもらいましたが、彼女の毒気が肩先きから沁《し》み渡るのを覚えました。
それから婆さんは、毎夜私の部屋へ遊びに来まして毒気を発散しながら親切にしてくれるのであります。この親切は老年の一人身から僕を小供と思ってしてくれる親切だと解釈する事に私は大につとめたのであります。
ところが、如何にも、その頭のくろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]を見ると我まんがならないのです、私はまた、毎朝婆さんのお化粧が気にかかるのでした、彼女は実に長い時間鏡に向って、娘のする姿態で以てお湯を使うのであります、お化粧中は口三味線《くちじゃみせん》で浄瑠璃《じょうるり》を語るのですから堪《たま》りません、私は全くこの草鞋裏の親切だけは御免だとつくづく思ったのであります。
それから一週間ばかりの後でした、私は例の如く絵の道具をかついで出ようとすると婆さんは私を呼びました、実はこの間から絹布団を作ったのであるが、初めには男の人に寝てもらうとよいとの事|故《ゆえ》、今晩はぜひとも寝てはくれまいかとの依頼でした、私は何心なくそれは結構な事で、私は絹の布団などへはかつて寝た事はないのですからよろしく頼みますと申しました。
その夜、私は部屋へ帰って見ますと、一向絹布団の影も見えませんので私は婆さんに、一体絹布団はどうしたかと聞いて見ましたら婆さんは、ああ、それはあんまり重たいさかい私の部屋に敷いてあるといいますので、私はこれは弱ったと思いました、あのくろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]の頭と同じ部屋とはあまり情けないと思いました、私は念のために彼女の部屋を覗《のぞ》いて見ました、なるほど、とても大きなダブルベッド位なものが八畳一杯に拡がっているのでした、例によって長火鉢の上にカンテラが一つと黒い大きな仏壇に燈明《とうみょう》が点っていました。
ところで婆さんの寝床が見当りません、私は変な具合だと感じましたので思い切って婆さんは一体どこへ寝ますかとたずねて見ました、婆さんは、いや、わたしはまたあとからといったきり長火鉢の前へ座って、丁度その日は月末でもありますので、何か算盤で勘定を始めました。
私はやむなく黒い天井と仏壇の燈明を眺めながら、絹布団の中でよく寝た真似をしていましたが、私の神経は皮膚から一寸位いも飛出しているかと思う位い昂奮しているのでした。あの草鞋の裏め、一体どうするつもりかと考えると到底うっかり眠る訳にもまいりません。
そのうち、もう木辻へ通う人足も絶えた一時過ぎでした、草鞋の顔が私の鼻さきへ突然現われたのであります。
これからの対応が頗る面白いのでありますが人様の前は申難《もうしにく》いので割愛《かつあい》致します。
とにかく私は全身に毒気を浴びて、くぐり戸から逃げ出しました、草鞋が追うて来ないよう戸締を固めて私は離座敷《はなれざしき》へ座ったまま神経は飛出したまま、夜の明けるのを待ちました、なるほど秋の夜は長いものだと知りました。
あの草鞋の奴め、今朝はどんな顔をしているかと思って怖《おそ》る怖る母屋《おもや》を眺めますと、彼女は相変らぬ顔で鏡台に向って、しかも、そりゃ聞えませぬというさわり[#「さわり」に傍点]を語っているのでありました。狐狸の類ならば忽《たちま》ち姿を消す処でありますが人間はずうずうしいものであります。
当時公園の亭座敷《ちんざしき》に住む九里氏の許《もと》へ早速相談に行った処、ここへ逃げて来てはという事になり、私は荷物一切車に積んで浅茅《あさじ》ケ原《はら》へとのがれました。
以来、私は当分のうち毎晩草鞋の毒気に悩まされて困ったのであります。
その後、婆さんの家近く住む按摩《あんま》に療治してもらった時、私はふと、婆さんの事を訊《たず》ねて見ました、すると按摩は意外な顔をして、あんたはよう知ってるな、察する処、やられたのやおまへんかというのです、私は実はちょっとやられかか
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