フランスは巴里《パリ》の都で、初めて好きな帽子にめぐり逢《あ》ったのでした。
巴里でも伊太利《イタリア》製や、アメリカ、英国製品がかなり多く入っていますが、純フランス製のものの中に私の注文通りの型が沢山あるのでした。
私はサンミッシェルのある帽子屋へ飛び込んで、一番好きな黒の中折《なかおれ》を一つ買って、勇んで下宿へ帰ったのでした。
鍔の狭い事は格別でそして急角度深く巻き上っているのです、その角度に何んともいえない味があるのです。
巴里の極《ご》く普通の男がよくこの帽子を冠っています。それが私の今なお愛用している帽子であります。ところがもう三年余りにもなりますので、よほど古ぼけてしまって色も変って来たようです。
本国の巴里でさえ、もうこんな形は流行していないかもしれません。目下|堪《たま》らなく心細い思いをしている次第。
しかしながら、こんな場合の用意にと思ったわけではありませんが、山が円《まる》くて、鍔がそれはうんと巻き上った黒の軟《やわら》かい帽子をマルセイユで、買って置いたのでした。これは、まだそのまま、トランクの底にフランスの匂《にお》いと、ナフタリンの香気と共に安眠していますので、やや心安んじている次第であります。
人間が鹿に侮られた話
ある夏のことでした。今フランスに滞在している大久保作次郎君と私とが奈良の浅茅ケ原の亭座敷を借りて暮していたことがありました。
ある日ちょっと散歩して帰ってみると、締切って出たはずの障子が少し開いているではありませんか。
おかしなことだと思ってちょっと恐る恐る中を覗いてみますと、大きな一匹の女鹿が座敷へ上がり込んで寝ているのでありました。
おい君、出たまえ、と大久保君が鹿に申しました。私は箒を持ち出して鹿のお尻を突いてみましたがなかなか動きません。ただ尻尾をピリピリと動かしただけです。しかしながら四畳半で眺める鹿の大きさは、また格別なもんだなと思いました。
君出たまえぐらいでは駄目だというので、二人がかりで尻をどやしつけましたら鹿は止むを得ぬといった様子でのそりと庭へ降りました。
温厚である大久保君も、そののっそりとした様子が、いかにも人を見下げた態度だと腹を立て、やにわにステッキを握って鹿の後を追いました。[#底本ではこの行一字下げしていない]
鹿という奴は一体ちょっと見たところいかにも
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