によって志によって、その赴くところに差別があるということは、かなり必要なことだと思う。銀座はブラツクところ浅草は浅草らしく、神田は本屋、女郎は吉原、それ以下は亀井戸などとなっているから都合がよく、したがって同好の士が集まることになるからお互いに不愉快がない。
 私はこの意味でパリの地下電車やバスや市電でさえも、座席に等級をつけてあることを大変うれしく思うのである。[#「地から1字上げ」](「マロニエ」大正十五年二月)

   芸術と人間の嫌味

 嫌味といえば今一々例を挙げて説明しなくとも、大抵わかっていることと思う、われわれがとても堪らない嫌味な奴なんだという、あの嫌味のことなのだ。
 これは人間に限らず、その嫌味な人間の作ったものなら、絵でも彫刻でも芝居でも何でも嫌味なのだ。ところでこの嫌味というのは大抵人間には必ずちゃんと存在しているものである。自分こそ嫌味はなかろうと思っていても、他人が見ればちゃんと存在していることが多いのだから面白い。その中でも嫌味な奴というのはそれをうんと持っていて隠し切れない男のことかもしれない、男に限らない女でもだが。
 それは例えば人間の顔の真中に、鼻糞とか鼻の脂などが存在しているのと同じようなもので、それが素敵な美人であって、若くあるところの娘の鼻に必ず存在するところのものであるから悲しい。だから美人の要素としては鼻の中の掃除などははなはだ重要な事柄だろうと思う。
 ある時、芸者が三人集まっての雑談中ふとどんな男を一生の相手として選んだら一番幸福だろうという問題が出た。するとその一人が私は隅々のきれいな人なら大丈夫だと思うと答えたそうだ。すなわち耳穴、鼻の穴、目くそ、歯くそ、フケの類、爪のあか、こんなものを蓄めている男は、不吉と不運の神様だということに話がきまったそうである。沢山の人間を取り扱っている女達の鑑別法もなかなか面白いものだと思ったことがある。
 要するに美人の鼻糞はわれわれのフケ同様、人間の作った芸術にこの嫌味という味がどうも出たがって困るのだ。また人間の心の一部にちゃんと存在していて、そこから発散する臭気なのだから致し方がない。人間の生きている以上は湧き出してくるところの生きるという力の余りものだと考えてもいいと思う。この余りものがうっかりすると芸術にそのまま現れるのだ。
 それで人間はいくら美顔術をやっても絶対に
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