でいたも同然で、その一夜こそは面白く生きていたということにもなるようだ。人間はだから醒めているからといって威張ることは出来ない。
私のような弱虫はどうせ長寿を保つことは出来まいと思うから、せいぜい夢の散歩でもして長生きの工夫でもしなければならないと思っている。
夢の散歩は別として、昼間の散歩でもただ無意味に損ばかりする仕事でもない。例えば何かの芝居がかかっているとする。一度見ておこうと思う。毎晩その看板を眺めながら散歩している。不思議なことには、遂にはその芝居はもはや見てしまったものの如く思えて来ることがあるのだ。見たも同然と思えて来るのだ。千里眼のようだがまったくそんな気になる。妻君があの着物が欲しいという。毎晩眺めて通ると、もはや買って仕立てて飽き飽きして、古物がぶら下がっているものと思えて来る事がしばしばある。これらは散歩の一得であると思う。
東京は何といっても広いから散歩にはすこぶる都合がいい。銀座から神田、広小路、浅草と歩けば限りがない。何日でも違った方面を散歩することが出来る。何者かに出会う可能性も多いわけだ。私は時々古い額縁ぐらいに出会って、買って帰ることがある。あまりそれ以上の幸福は拾えないで、紅茶の一杯でも飲んでヘトヘトに疲れて、夜遅く帰ってくるのだ。これで私は足ることを知って、まず満足して寝てしまうことが出来るのだ。しかる後は夢の散歩である。ちょっと不憫といえば不憫とも考えられる。
ところで、大阪ははなはだ散歩の範囲が狭い。そして銀座の如くすっきりとしないのだ。何としても大阪人の集まりである、彼らの心根はすなわち嘔吐となって現れているのだ。私は道頓堀の街路ぐらい嘔吐を遠慮なく吐き散らされている盛り場をあまり見たことがない。春の四、五月頃においてことにはなはだしいのだ。一度よく眺めて歩いて下さい。すきやきの嘔吐から鰻丼のもの、洋食のものいろいろとある。胸が悪くなる。私は狐に馬糞をたべさされても腹は立たないが、人間の嘔吐だけは実に癪に障るのだ。道頓堀はまったく散歩には不適当な場所だと思う。
それはたんに散歩を目的とする者よりもここでは芝居を見るもの、飲食をしたがるもの、芸者を買いたがるもの、買って連れて歩いているもの、女郎買いを志すもの、女給へ行くもの等、すなわち種々様々な直接行動で満ちているのだからしたがって汚なくなるわけだ。
だから人
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