れている位い、それは感動的である。法律はこれらの絵の売買をさえ禁じているではないか、一目見ると心臓が昂《たか》ぶるというまでにその裸体は人を動かせるのだから堪《たま》らない。
私はかなり多くの西洋の裸体の絵を見たが、如何にそれが理想的美人であっても、権衡が立派であっても、絵の技が優《すぐ》れていても、写実であっても、心臓が昂進《こうしん》するという事は更らになかったようである。
全く浮世絵師の作は、それがどんな無名の作家であってさえも、その手足や姿態のうまさにおいて、私は感心するのである。
ところで、西洋人が裸体を描くのは、もっと理論的で科学的である、如何に権衡があって、如何に色彩があって、如何にデッサンがあって、如何に光があって、如何に立派に構成されているか、という風に描かれてある。
この人間の体躯《たいく》の美しさをば、苦労のありたけを、つくして、説明しているその科学的にめんじて、法律は浮世絵の如く裸婦像をば禁じないのだろう、でも年に何回かは撤廃を見る事があるのは甚《はなは》だ遺憾ではあるが、これは今の半ぱな世では致し方のない事かも知れない。
大体、私自身は西洋人よりも日本の女の方が好きなのだ、それで裸体をかく時にでも、私は決して理想的なものを求めたくない、各《おのおの》のモデルに各様の味があるのだから面白いのである、人の顔が各違っている如くに。
ところで日本では裸婦を描くのに大変不思議な障害が伴って来るのだ、それは画室の習作とすれば何んでもない事であるが製作となってはやはり何とか、裸婦としての自然な生活状態が必要となってくるのだ。
例えば西洋であって見れば水浴の図とかあるいは椅子《いす》による女とか、化粧図とか色々裸の女とその自然な生活との関係が描かれてある。
ところが日本ではその女の裸としての自然な生活からモティフを求めようとしても、ちょっと困難なのだ、あるにはあっても、実にこれはまた、見ても紹介してもならないという場所における事柄ばかりであるのだから。
例えばベッドの側に立てる女の図を、日本的に翻訳して描いて見るとかなり困った図が出来上るのだ、即《すなわ》ち煙草《たばこ》盆、枕屏風《まくらびょうぶ》、船底枕《ふなぞこまくら》、夜着《よぎ》赤い友染《ゆうぜん》、などといったものが現われて来るのだ、そして裸の女が立っていれば如何にも多少気がと
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