ったから、上野公園というまず理想的な避難所に初めからいたために、私はただ驚いていさえすればそれでよかった。少しも走る必要がなかったのは結構だった。私は会場前の椅子へ腰をおろして、私のトランクが宿の六畳の間で黒煙に包まれているのを私の心眼という奴に照して遥かに眺めていたものであった。
 そのトランクの中にはまだ作ってから二、三度以上も着たことのない洋服や、私がドイツで買ったところの愛用の写真機もあった。そのレンズが火焔で溶解している有様なども私は考えた。
 そして、この大騒動、大混乱に遭遇しながら、少しも走らずにすむという運命は、何と幸せに恵まれた心臓だろうと思った。
 ところで、このような異変や騒動がなければ、僧帽弁は常に安泰かというに、なかなかそうは行かない。あらゆる嬉しいことや幸福や遊戯でさえも、多少とも胸の躍るものばかりだといっていいかも知れない。概して幸福は心臓を昂進させる。
 例えば、ふと紅の封筒が自分のポケットから飛び出したとしたら、忽ち血行は変調を来たすであろうし、電車の中で美人の視線といささか衝突してさえも、直ちに逆上して脈膊に影響を来たす位のものである。従ってそれ以上の幸福が飛び出したらまったく私の心臓は止まってしまうかも知れない。あまり結構な幸福が私を訪問しないのも、一重に神仏のお慈悲からかも知れないと思う。
 心臓を昂進させるものに酒がある。結構なものであるそうだ。私は酒のみが羨ましくて堪らない。私も一度、あんなにうまそうなものをガブガブと飲んで、いい気になって、いいたいことをいって、うれしがって、夢中になって、気に入らない奴と大喧嘩をして、なぐりつけたり、他人に迷惑をかけてみたりしてみたいと思う。
 ところが飲めない私にとっては、酒と喧嘩は猫いらずだから情けない。まったく私は一滴の酒も飲めないのだから、一生涯私は正気であるわけだから辛いと思う。
 それで私は、時々この世界から酒というものが退散してしまえばいいと思うことがある。この地球の上に、飲める者と飲めない者とが共存している[#「している」は底本では「してしる」]ことは、まことにお互いにうるさくていけない。金持ちと貧乏人が共存しているよりも不都合に思えることさえある。
 まずこの世の中の遊興の組織が既に酒を中心として組み立てられているようだ。私はこの組織のために時々大震災や近火ぐらいの苦し
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