州音頭や女の軽業に、より多くの興味を持つようになった。

 今の時代は結構だ、人間の裸身を観賞する自由が多少とも、与えられて来た、女身の美しい発達を美しいと見る事は頗る当然の事として許されるようになった、今の時代の男たちは海女の手踊りを見に行く必要がなくなって来たようである。
 例えば海水浴へ行っても、何んと結構に美しい無数の足の動いている事だろう、われわれの展覧会の裸女は、それでも時々陳列を拒まれる場合もあるが、大体において観賞の自由が与えられて来た。街路では洋装の裾《すそ》から二本の足が遠慮なく出ている、電車の釣革《つりかわ》から女の腕がぶら下る、足の美しさがグラビヤ版となって世界に拡《ひろ》がる、そして娘の足は、太く長く美しさを増して来た、思えば日本の昔は窮屈であった。

 昔、ある正月前の寒いころだった、私は千日前《せんにちまえ》をあるいて海女の手踊の看板を見た、髪をふり乱して、赤い腰巻をした海女の一群がベックリンの人魚の戯れの絵の如く波に戯れているのである、それが頗る下品な、絵であったが、しかし遊心《あそびごころ》だけは妙に誘う処の絵であった。
 私は以前から一度入って見たいと思いつつも、多少きまり悪さを感じていたのであるがこの日は思切って木戸銭を払った、なお中銭《なかせん》という無意味な金まで取られて穢《きたな》い幕をくぐると、中には丁度洗湯位の浴槽《よくそう》に濁った水が溜《たま》っているのだった、わずかに五、六人の見物は黙って暗い電燈の下でその汚水を眺めていた、私もそれを眺めていたわけである、やがて印半纏《しるしばんてん》を着た男が何かガンガンとたたいて、さアこれより海女の飛込《とびこみ》と号令した、すると穢《きたな》い女が二、三人次の部屋から現れてその汚水の中へ飛び込んだものだ、私は動物園を考えた。
 見物人が一銭を水中へ投げると海女は巧《たくみ》に拾うのだ、その時海女は倒立《さかだ》ちとなって汚水から二本の青ざめた足を突き出した、その足の裏は萎《しな》びて、うすっぺらで不気味で、青くて、堅くて動物的で、実用で、即ち人間の立つ台の裏という感じなのであった。
 私は、女の足の裏は今少し優美なものかと思っていたのだ、ところが全く厭《いや》な形相《ぎょうそう》のものであった、女の足の裏がすべてこれだとすると考えものだとさえ思った、しかし世の美しい人たちの
前へ 次へ
全83ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング