ず溺死《できし》するものと、きまったものではないので、氷水を飲み過ぎて下痢を起こして寝たというのも水難といえばいえない事もないのだ。水難を怖《おそ》れるためか、どうかは知らないが、私は性来、水に浸《つか》る事が大嫌いである、いかに三伏《さんぷく》の酷暑であっても、海の風に吹かれると私の血は、腹の奥座へ逃げ込んでしまうのだ、ましてその水の中へ浸る事はなかなかの事なのである。やむをえないお交際《つきあい》から入ったとしても私の唇《くちびる》は、見る見るうちに紫色と変色して、慄《ふる》えが止まらないのである。
この頃のように、海水浴とか水泳とか、女が寒中に抜き手を切るとかいう事の流行する時代において、かかる事を申上げるのは、誠に恥かしい次第であるがいたし方のない事だ。従って私はいまだかつて水に浮いて見たためしがないのである。
静坐法というものが一時流行を極《きわ》めた時、何んでも人間は、腹の中へ空気を押し込まなければ死んでしまうように聞かされたものだ。貴様のようなペコ腹は、うんと下腹で空気を吸えと随分うるさく説かれたものだ。幸《さいわい》この頃は静坐も下火となったので助かったと思っている。私は実行しなかったけれど幸にして、ほそぼそながらも死にはしなかった。
ところが海水浴や水泳は静坐法よりも面白いものと見えて一向下火にならないので弱っている。大《おおい》に盛んに泳いで見る事は頗《すこぶ》る海国男子として結構な事であるが、人は自分のすきな事を他人にすすめたがるものなのだ。それは静坐法と同様だ。「それはききめがありますよ、一週間でこれこの通り」と下腹をわざわざあけて不愉快な臍《へそ》を見せるのだ。私は当時随分沢山の臍の種類を見せてもらった。
この、勧めたがるという事から、私の水難が起こって来るのである。昔は中学時代において散々悩まされたのだ。これは体育のためとあって、勧めるというよりもむしろ強制的である。濡《ぬ》れた褌《ふんどし》をぶら下げて、暑い夕日の中を帰ってくる時の気色《きしょく》の悪さは、実に厭世《えんせい》の感を少年の心に目醒《めざ》めさせた。従って私は水泳の時間は欠席するか蛤《はまぐり》を漁《あさ》る事によって、せめての鬱晴《うさば》らしとしたものであった。
私の妻は何々水練場とかへ通っていたというので多少の心得がある処から夏になると海へ行きたがるのだ、
前へ
次へ
全83ページ中61ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング