百円とか、葡萄酒《ぶどうしゅ》三本位を片足代とか何んとかいって番頭長八が持参したりしては、全く仏壇からぬっと青い片足を出して気絶でもさせてやりたくなりはしないか。
先ず轢《ひ》かれるなら私は貨物列車とかトラックとかもうろう[#「もうろう」に傍点]とか、少々でも車上の人格のはっきりしないものの方がましだと思う。昔は名もない者の手にかかりといって悔んだものだが、私は名もない奴の方がさっぱりとしていていいと思う。それは天から落ちた星の破片とも考えられる。従って殺されたという感じが強く働かなくてよくはないかとも思う。
交通巡査の動的美
私はこのごろ交通巡査というものに興味を感じている。
それは鉄筋コンクリートの建築の、アスファルトの舗装道路の、電車の、自動車の、その他のあらゆる交通機関の、近代都市にとって欠くことのできない点景のひとつとなった。
それは制帽をかむり、制服をつけ、そしてサァベルをさげた一人の巡査というよりも、そのゼスチュアのあざやかさと、正確さと、メカニックな点においてむしろ一個の機械としての興味を私に感じさせる。
それはある意味からすれば機械よりも機械らしく、機械よりも完全に動く機械である。
私は郊外電車の停留場前や、市電の交叉点に立って、交通整理をしている交通巡査のすがたをその両腕の動きを、じっと眺めていることがあるが、絵画的――というよりも、そのなかから見出すのはむしろ活動写真的な面白さである。
漫画には描くことができるかも知れない。もしくは近代都市風景のなかの一点景人物として取り扱うことはできるかも知れない。だがそれの持つ本当の面白さを表現するには、どうしても絵画より活動写真だ。私はその適当な例を、先日見たドイツ映画『アスファルト』のなかにあげることができる。
往来のまんなかに立っている交通巡査が、その両腕を動かすごとに流れるような車馬のゆききがとどまり、動く有様は勇ましさとともに美しさを感じさせる。
しかもそれはメカニックなリズムを持つ動くものの美しさだ。
私はそれを見て以来、日本の交通巡査がもう少し美しければと考えた。
それは顔の美しさ醜さというよりは、肢体と服装との統一された美しさをその言葉のうちに含んでいるのであるが、日本の交通巡査の肢体がもっと大柄で、帽子も服も靴も一色の黒でなく、それの背景となる近代都市の風景にぴったり調和するように、もっと色彩の美しい、目につきやすい、すっぱりしたものであって欲しいと思うのである。
陽気すぎる大阪
私がもしも現在なお大阪の財産家のぼんちであり、その遺産と先祖代々の商売を継承していたとしたら、そしてその余りの時間を南地北陽に費《ついや》し、その余りの時間をダンスホールとホテルに、その余りの時間をゴルフと自動車に、その余りの時間で市会議員ともなり、その余りの時間で愛妾を撫育《ぶいく》し、最後の甚だ吝《しみ》ったれた時間を夫婦|喧嘩《げんか》に費すという身分ででもあれば、私は、大阪の土地くらい煙たい階級のいない、のんきな、明るい、気候温和にして風光|明媚《めいび》なよいとこはないなアと満足するにちがいない。
ところが学術、文芸、芸術とかいう類《たぐい》の多少|憂鬱《ゆううつ》な仕事をやろうとするものにとっては、大阪はあまりに周囲がのんきすぎ、明る過ぎ、簡単であり、陽気過ぎるようでもある。簡単にいえば、気が散って勉強が出来ないのだ。画家だってよくこんなお世辞を戴《いただ》く。「あんたらええ商売や、ちょっと筆先きでガシャガシャ塗りさえすれば百円とか五百円とかになるねがな、気楽な身の上や。」
貧乏して何にもならぬ事に苦労している時、こういわれては全く阿呆《あほ》らしくて、芸術心も萎《しな》びてしまう。そこで、気の利《き》いた芸術志望者は、多少大阪よりは憂鬱である東京へ逃げて行く。それで、大阪は常に文芸家、芸術家は不在である。水のないところでは魚も呼吸が困難なのであろう。私なども、関西に暮していると、ロータリークラブへ画家として出席しているような、変な淋《さび》しさを常に感じている。
居住性からいえば、大阪の郊外、殊に阪神間くらいいいところはないと思う。だが、この温和な土地で、大きな別荘に立て籠《こも》って、利息の勘定をしながら、家内安全、子孫長久、よそのことはどうでもよい。文化とは何んや、焼芋《やきいも》の事か。「近頃文化焼芋の看板をしばしば見かける」というような人情を私は感じる。こんな人情は大阪に深く根を下ろしているらしい。そして文化を焼芋と化し、赤玉を生み、エロ女給となって遠く銀座にまで進出する。またおそろしくも強い人情ではある。
阪神[#「阪神」は底本では「阪神の」]夜店歩き
神戸
心斎橋を行くと呉服屋と下駄屋と時計屋と小間物屋との重複連続だという印象が残る。そこでわれわれ男たちにとっては、その両側の飾窓ははなはだ無興味である。その点では神戸の方が男たちをよろこばすべき商家が多い。洋食器屋、ハム、ソーセージのうまい家、ユハイム[#「ユハイム」は底本では「ユーハイム」]やフロインドリーブの菓子屋、洋家具屋、支那街の焼豚屋、カラー、ネクタイ屋、西洋雑貨屋、バー、チャブ屋など限りがない。なお私の蘆屋からは大阪よりも手近である関係上、つい神戸を多く訪問する。そして例えば私の好きな古道具などを素見しながら山手の三角帳場から両側の店を覗きつつ生田前へ出ることに近頃ではおおよそコースがきまってしまった。
それが夜ででもあれば明るい店頭は生田神社の前からなお連綿として踏切を越え大丸の前から三宮神社の境内に及ぶ。そしてこの境内は毎夜の夜店である。金魚を掬う屋台店から、二銭のカツレツ、関東煮、活動、征露丸[#「征露丸」は底本では「正露丸」]、コーヒー、ケーキの立ち飲み屋、人絹の支那どんす、五〇銭、二〇銭のネクタイ屋等の中を女給、ダンサー、アメリカ水兵、フランス人、インド人、西洋人の夫婦が腕を組める、支那の女が氷水を飲んでいる等は船場、島の内[#「島の内」は底本では「島野内」]の夜店では発見出来ない情景である。
それからじきに元町は明るい商家が軒を並べている。その元町を行き過ぎてしまうと三越のところから楠公前は目前に迫っているという有様だ。さてこの辺から少々街の品格が下がってくる上に往来の人物も何か尻をまくり上げた男連れが多くなる。楠公神社は今は三の宮の賑わいに及ばないけれども、その淋しい境内に暗い夜店がポツンポツンと散在せる光景もまた何か夜店の憂愁を感ぜしめる。
それからなお両側の明るい商家はいよいよ明るさを加え、混雑を増し、何となく遊廓の香気さえ高くなって行くのだが、それから湊川の新開地の昼店[#「昼店」は底本では「画店」]と夜店と光と雑沓が控えている。とにかく三角帳場から新開地までのコースにおいて、われわれは暗がりの町を発見することがない。そしてその東西の長さにおいてはまったくくたびれるだけの距離がある。要するに神戸の商家はことごとく夜店の代用も勤めているといっていいかも知れない。それでむしろ神戸の夜店は場末に近いところに多く暗い街を明るく照らしている。電車やバスの窓から、神戸を離れたと思われるころ思いがけないところに電灯の輝く長い一筋を発見することである。夜店の賑わううしろの暗に青い麦畑を見ることもまた場末の情景である。近ごろは芦屋でさえも夜店は相当の賑わいを呈して来た。子供はその三と八の日を忘れない。
大阪
さて大阪は昔から商業の中心地であり、大体において中心地帯は大問屋が軒を並べているためか夜になると各戸ともに戸を締め切って街路はまったく暗やみとなって静まり返ってしまう傾向がある。晩に店を開くものは小商人としてむしろ軽蔑されがちだった。まず大阪の町は暗いのが特長だといっていいかも知れない。ずっと以前は梅田から堺筋を経て恵比須町にいたる間において、ただ日本橋のあたりが夜の灯に輝いたに過ぎなかった。そして日本橋三丁目あたりのある暗い夜店では私は幾度か兄さん兄さんと見知らぬ女に捉えられたくらいの淋しさだった。驚いてよく見ると、五人のうす汚れした女が立っていた。
現代[#「現代」は底本では「現在」]では街の明るさは街灯によって増したけれども、でも堺筋の大部分の家は昔と同じく夜は戸を締めた暗い街路に過ぎない。第一流の散歩道といわれる心斎橋でさえも、この現代において、北は久太郎町から難波駅にいたるただ十町ばかりが心ブラ地帯であるに過ぎない。若き暇な芸術家は一夜に心斎橋を幾往復するか知れないという。さても辛抱の強さよ。
したがって大阪の夜店は暗黒の街路を一、六、三、八、といった日に氏神を中心としてその付近を急激に明るくして楽しもうとする傾向がある。私の子供時代の大阪の夜の暗さは徳川時代の暗さをそのままに備えていた。だから夜は寝るよりほかに途はなかったものだ。したがってまだ宵の一〇時ごろに火事の半鐘がじゃんと鳴ってさえも、丁稚や番頭は悦びに昂奮して飛び上がったものだ。縁もなきよその火事でさえも一応は火事半纒を着用して、えらいこっちゃ、近い近いと走り出した。そして彼らは火事が終わりを告げ、火の気がなくなるまでかえっては来なかった。それくらい若い男たちは退屈だったのだ。丁稚や私の幸福は、すなわち火事と夜店の八の日だった。それは八日、一八日、二八日に出るところの大宝寺町の夜店だった。母はその日がくると今夜はよのよだといった。すなわち横町の夜店の略称だ。すなわちよのよの日は女中も番頭も丁稚もめかしこんでぞろりぞろりと繰り出すのだ。暗い町が急に明るくなり、淋しい町が急激に賑わうことは何といってもわれわれを昂奮させた。まったく夜店は夏は夏で西瓜と飴湯に暑さを忘れ、冬は冷たい風を衿まきで防ぎつつカンテラの油煙を慕って人々は流れて行く。ことに年末の松竹梅と三宝荒神様のための玉の灯明台、しめ縄餅箱を買うことは、われわれの心へいとなつかしき正月の情趣を準備させることだった。春になって風の温かい日がくると夜店の灯火は誘惑をことのほか発揚する。そして何といっても夜店の誘惑は夏である。
人間が不思議な温気と体臭を扇子や団扇で撒き散らしながら、風鈴屋、氷屋、金魚屋、西瓜屋の前を流れて行くのである。その大宝寺町の夜店は今なお盛んに行われている。私はなつかしみつつ今も時に歩いてみることがある。それから四、五年間私が住んでいた八幡筋へも八幡社を中心とする夜店が出た。自分の家の前が雑踏することは子供でもない私を何か妙にそそるところがあった。私は夜店の人の流れがおおよそ引去った一二時ごろひっそりと夜店の末路を歩いてみるのが好きだった。そして古屋敷の徳川期の絵草紙類や娘節用、女大学の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵に見惚れて仏壇の引出しを掃除しているごとき気になって時を忘れたものである。
さて、近代の堺筋はどれだけ明るさを増したかを見るに、もちろん街路に電灯は輝いたけれども、多くの家はなお夜は戸を締めている。その暗いトンネルをタクシーのヘッドライトが猛烈に流れている。クラクソン[#「クラクソン」は底本では「クラクション」]は叫ぶ。自分の話す声さえ聞こえない電車の車輪の鉄の響である。タクシーの助手は乾燥したいびつな顔を歪めつつわれわれの前を通る時、一本の指を一休禅師の如く私に示しつつ睨んで行く。その一本の指にこそ現代[#「現代」は底本では「現在」]の複雑な心が潜んでいることを私は感じる。
タクシーの示す指の相貌と同じ相貌を私は近ごろ試みられつつある堺筋の新しき夜店を訪ねて発見した。夜店は指を示してはいなかったが、堺筋の夜店では旧夜店の相貌を見ることは出来なかった。平均された貧しく白い屋台の連続と手薄い品物と何か余情[#「余情」は底本では「予情」]のない乾燥とが、かの桃色の小型タクシーを思い起こさせた。そして堺筋の歩道の狭さは殆ど二メートルと見えた。その中を往と復との群衆が衝突し
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