し左様な顔に限ってお座敷向きだろうと想像する。
名人名優でなくとも昔は好男子が直ちに役者の第一条件とされ、好男子でさえあれば下手糞でも人気は大変なものだったが、今もなお左様なこともあるにはあるが、しかしだんだん近代になって人間の人相性格のはっきりしたものが役者となってもっとも有効となりつつあるように思う。ことに映画においてはバンクロフト、ストロハイム、ヤニングスとかボウエルとか草人とかあるいは端役の老若にも性格そのものの顔を集めることは注意している如くである。また愛好家の女性達もまただんだん治兵衛好みからバンクロフトへ好意を転じつつある。ともかくももう卵に目鼻という顔は流行《はや》らなくなってしまった。
人形芝居では、人相というものを初めからその役々の性状にしたがって適当に作ってあるから由良之助が軽卒な顔であったりすることはないが、人間の役者ではその人相と性格が役の邪魔をすることがかなりある。この間も私は久しぶりで忠臣蔵を見た。大阪のことだから役者不足の東西混合劇だった。したがって何かの余興に見る名題芝居を思わせるものがあった。
幸四郎という人の顔は、はなはだ明快で大柄でのんびりとした相貌で、性格は英雄ふうと見えるがためか、太刀を揮って鬼の片腕のために奮闘などしていると安心して見ていられるが、師直となっていたものだから、豪快善良な師直が出来た。とても判官位を相手にケチな金儲けなどする人物とも見えず、その上相手の判官は大阪の福助というもの静かなむしろ静物に近い性格者であった。好漢師直でありしかも判官は腹立てず、しかしながら筋書きもあることだから、ともかく刀は抜かずにはいなかった。
さて電光輝く桜の仲之町、多少のジャズとレヴューの光景だ。ここでは幸四郎の人相は大いに役に立った。紫の鉢巻したる助六だ。そこで弱ったのが揚巻太夫の静物福助だから一人ではしゃぐ助六を尻目にかけて、この不良青年を目殺してしまった。といったふうの役者の人相と役とのちぐはぐは不思議に変な気のするものである。
まずわれわれ画家は作品とともに並んで本人出演の必要がないので、幸いにもどんな素顔や人相を呈していたって構わないわけではなはだ自由だ。しかし中には隠しておくにはもったいない位の好男子もあることだから、これらを絵画愛好の若き女性達へ広くお目にかけ得ないことは残念な職業である。まず個展でも開いた節モーニングか何かで会場へ立って、自分の画集へサインでもさせていただく位ではまだ淋し過ぎはしないか。
[#地から1字上げ](「文芸春秋」昭和五年四月)
電球
強盗、ゆすり等はあまりに直接な行動だから芸術的余情を伴わないけれども、いろいろと工夫を凝らして玄関から欺しに来る奴の心は憎めない愛情があり、よくあんな智恵を絞ったものだと感心されることもしばしばある。そのつまらないことを考え出したその心根に同情して欺されながらもつい微笑が湧く。
いつの頃だったか忘れたが、雨の降る夕暗まぐれに、電球の中の線の切れたものを修繕してあげますという洋服の男がやって来た。それはなるほど便利重宝なことだと思った。幸い切れた球は二個あった。一個一〇銭ですぐ修繕するという。これは欺される方もよほど常識が欠乏してはいるのだが、結局頼んでしまった。
その男は受け取った二個の電球をポケットへ入れて出て行って三〇分ばかりで帰って来た。もう出来ましたという。その時日は[#「その時日は」は底本では「その時は」]暮れていた。彼は輝ける電球を消し球をはずして、今修繕して来たものと取換えた。なるほど不思議に輝いた。今一個のものも他の電球へ取りつけた。それも直ちに点火した。そこで二〇銭を彼に与えると、彼は礼を述べて立ち去った。
それから三〇分もたたぬうちに修繕してもらった球は二つとも殆ど前後して消えてしまった。何のことだ、どうせこんなことだろうと思って以前の電球を元の如く取り付けてみるとその球の線も二つながら切れていて光らないのだ。すなわちそこには四個の切れた古球がずらり並んでしまった。
ようやくなるほど欺されたということがうすぼんやりと判って来た。
結局、彼は二〇銭と私の家の新しい電球二個[#「電球二個」は底本では「電球」]をポケットへねじ込んで、切れた球をその代わり暗がりまぎれに並べて帰ってくれたわけだった。それでとうとうまた二個の電球を買いに走らねばならなかった。
しかし考えてみると、当方の間抜けさと彼の手品の成功は、寄席の手品で[#「手品で」は底本では「手品でも」]ちょっと舞台へ呼び上げられて縄の尖端を持たされている位の余情はあった。
勇しき構成美
近代芸術の画因《モチーフ》として機械というものが現れた。機械のなかった世界にあっては、人は自然界の万物のみを愛し、画家はまたその姿のみを描いた。だが、われわれの周囲が都会であり、近代であり、それが極度に発達し、機械がわれわれの生活を包んでしまえば、われわれは山川草木を見る以上に、毎日機械を眺め、それに包まれてしまう。すると、われわれは山川草木を愛していたとその同じ心でボイラーを愛しエンジンを磨く。昔は塩原多助《しおばらたすけ》が馬のために泣いたが、今はキートンが機関車と別れを惜《おし》む。紳士は十六ミリ映写機の滑《なめ》らかなる廻転を賞し、その運動の美しさに惚込《ほれこ》み、自動車の車体の色彩に興味を覚え、エンジンの分解に一日を費《ついや》し、その運動に見惚《みと》れたりする。超特急「燕《つばめ》」の大機関車が不思議な形の水槽《すいそう》を従えつつその動輪を巨大なるピストンによって廻転しつつ動いて行く形こそは、どれだけ近代人を悦《よろこ》ばせ子供の心を感動させているか知れない。
だが、自然が作ったという山川草木、昆虫、人体でさえも、それを解体し、分解し、顕微鏡で覗《のぞ》けば、それは驚嘆すべき極端に精巧を極《きわ》めた機械であるということが出来る。人間の構造、その精巧なる機械、それはツェッペリンよりも、何よりも完全な機械でもある。そして自分はこの複雑な機械をば、生れるとすぐ自由に運転することが出来る。
微細にして精巧な部分品が結合して路傍の雑草を形造り、山川草木を形造り、人間と昆虫とライオンと猿と虎を造る。そして虎の雄姿と、草の花の愛情をも現す。
機械こそは近代の人間がその頭脳の働きを悉《ことごと》くここに集めて、人間の要求を極端にまで結晶せしめた一つの大建築でもある。それは生温《なまぬる》い趣味とか、遊戯によって造り出された玩具《おもちゃ》ではない。それは人体が造られ、草木が生れるのと同じ必要から、機械はまた組立てられて行く。ここに軍艦がある。まず、昔|天平仏《てんぴょうぶつ》が天平時代の必要から製造され、法隆寺が完全な姿において現出した理由と同じ理由から、現代のわれわれの生活からは軍艦が産出される。軍艦こそは実に近代機械文明の最大なる結晶である。そして、それは大きくいえば一個人、一国民の産物ではない。世界の文明国の人類が、一つ一つ、甚だしい必要に迫られ頭脳から絞り出された部分品が山積し、改められ、手古摺《てこず》らされ、構成されつつ延び上ったところの大彫刻である。だから、軍艦が波を走る光景、U何号がテレスコープを波に沈めんとする刹那《せつな》、その発射、黒い煙幕のグロテスク、巡洋艦のスピード、殊《こと》に戦闘艦においては、近代の陸奥《むつ》の如く、そのマストが奇怪なる形に積まれ、煙突は斜めに捻《ね》じられ、平坦《へいたん》にして長き胴体が波を破って進む形、それらの集合せる艦隊のレヴュー風の行進、大観艦式の壮大なる風景、それらは全日本の若き者どもを狂喜せしめずにはおかないはずである。
絵を描かぬ美術家、趣味から生れた建築やいくさぶね、切れない日本刀、不感症の女等は邪魔にばかりなる存在である。そして画家は、自然の草木、人体、機械、何が何んであろうとも、美しき存在は悉く描いて見たいという本能を持っている。現代の絵画のあるものは機械をモチーフとするに至ったことは甚だ当然であり、なおもっと機械が芸術の様式を左右することになるであろう。
街頭漫筆
私はあらゆる交通機関が持つ形の上の美しさを常に愛している。近代の機関車の複雑とその滑かな動きに私はいつも見惚《みと》れている。その他電車、自動車、飛行機、軍艦等、悉《ことごと》く人間が必要からのみ造り上げたところのあくまでも合理的なむだのない形の固まりを、人体の構造と同じく美しいものと思う。
さてわれわれの街頭風景を飾るべき主役は、即ちこれらの交通機関であり、なかんずく自動車とバスであろう。自動車は幸いにも世界共通の形のものがそのまま走っているので美しいが車体だけを安く仕上げたところのバスの形はいと情ない姿である。長さの甚だ足りない、不安定な、尻切れとんぼの、貧乏臭い箱が走って行くところは、『箱根霊験記《はこねれいげんき》』の主人公とその一族の自家用車とも考えられる。私はいつもこのバスに乗りつつ、遠くパリの街を考え、そのオムニブスの美しかったことを羨《うらや》んでいる。しかし私は東京を走る長い形のバスを少々だけ愛してもいい。近代阪神国道を走る最大の銀色バスも悪くない。
文明都市の交通の惨禍という文字を私は度々読まされている。また日々の散歩で自動車がセンターポールへ接吻《せっぷん》したまま蜂《はち》の死骸《しがい》となっているのを見る。あるいは若い娘が急激に倒されてその頭がアスファルトへ当ってぽん[#「ぽん」に傍点]という甚だ空虚な音とともに彼女のまだ封を切らない長篇の一巻は、そのまま煙となってしまったりするのを私は見る。
さような事件が、あまりしばしばあり過ぎたりすると、この自分の頭も何時《いつ》ぽん[#「ぽん」に傍点]という音と共に終りを告げるかも知れないし、また終を告げ損じて破れたるフィルムとなって生き残ったりしては、これまた怖《おそ》るべき事件でもある。
さてこれらの怖るべき惨禍が至る処に毎日起るほど、東京や大阪の市街は文明なのかと思って見るに、私はそうだとは思わない。
それは未開地であるが故に起るところの惨事ばかりだといっていい。訓練不足の民衆と、乱雑不整頓、無茶苦茶の都会交響楽であり、飛鳥山《あすかやま》の花見の泥酔の中で競馬が始まった位の混乱だ。
だから、日本の交通巡査位骨の折れるものも少いだろう。彼らは手を打ちふりつつも群衆を教育しつつある。その白い手袋の運動を剣劇の興味を以て、丁稚《でっち》小僧の大勢がぼんやりと自転車を抱えながら眺めている。そのファンであるところの彼らを「コラッ何をぼんやり立っとるか」と叱《しか》り飛ばさねばならぬ。その間に一台の猾《ずる》いタクシーが白線から飛び出したがために叱っておく必要がある。叱っているうちに、参詣《さんけい》すべきお寺について相談している婆さんの五、六人が、電車とバスの間に挟《はさ》まれてうろうろする。それを救助して電車へ押込まなければならぬ。それを私が眺めていてついでに叱られたりもする。
私は時々、この多くの自動車やその他の動くものの中で、何に轢殺《れきさつ》されたら比較的|悔《くや》しくないかを考えることがある。ヒョロヒョロと飛び出す自転車の如きごまのはい[#「ごまのはい」に傍点]はけち臭くて厭《いや》だし、リヤカアの類は軽率だし、自動車なら多少|我《が》まんが出来るかも知れないが、それに乗っている男の事が気にかかる。即ち毛ずねを現わして芸者にもたれかかっていたりでもすると、これはうっかりやられては死に切れないと思う。といって、自家用の光輝ある高級車もいいが、乗っている主人の顔を見ては死ぬ気にならぬ。素晴らしい美人ならあるいはどうか知れないけれども、それが何々の重役、何々博士の愛妾《あいしょう》ででもあったりしてはやり切れない。
あるいはバスか、トラックか、もうろうタクシーの方が死ぬにはむしろ気楽でいいかも知れない。なまじっかな見舞金や香奠《こうでん》の金子《きんす》
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