《せんたん》的にして若く勇ましく、シックな特質を備えていると思う。
 だから、この尖端的な世界にあっては、恋愛でも油絵でもが、少量の雅味と滋味を断然排斥して清潔に光沢をつけ、観衆を集め、然《しか》る後用事がすめばさっさと取りはずして古きタイヤーとして積み重ねてしまって差支《さしつか》えはない。これで展覧会さえ野球ほどの入場者がありさえすれば甚だ合理的なのであるが、その辺に現代日本と新鋭作家及び展覧会との間に生活上の悩みが存在するらしいのである。

 ともかく、活動写真のレンズに埃《ほこり》や古色があってはならない如く、新らしき芸術、尖端的都会、尖端人、あらゆる近代には垢《あか》は禁物である。それは手術室の如く、埃と黴菌《ばいきん》を絶滅し、エナメルを塗り立てて、渋味、雅味、垢、古色、仙骨をアルコホルで洗い清め、常に鋭く光沢を保たしめねばならない。断髪の女性にして二、三日風邪で寝込むとその襟足《えりあし》の毛が二、三分延びてくる。すると尼さんの有《も》つ不吉なる雅味を生じてくる。断髪の襟足は常に新鮮に整理されねばならぬ。新らしき女性に健康が第一の条件であらねばならぬ事は当然である。
 あるアメリカ人が古道具屋で観音様を買って持ち帰ると直ぐ石鹸《せっけん》でその垢を洗い落して、おお美しき仏像よといったそうだが、それはあらゆる近代に応用すべき尖端のコツ[#「コツ」に傍点]であるかも知れない。
 だが日本は、古くより雅味、茶気、俳味、古雅、仙骨、埃を礼讃した国民であり、折角作り出した塑像を縁の下の土に埋め、石燈籠《いしどうろう》を数年間雨に打たせて苔《こけ》を生ぜしめる趣味の特産地なのである。
 伊予《いよ》へ私が旅した時、もう海を一つ越えると文化、尖端とは何処《どこ》の国の言葉かとさえ思われる静寂さだった。ある暗い旧家では私の友人の父は、息子《むすこ》からもらったという竹籠《たけかご》を、彼の鼻の脂《あぶら》を朝夕に塗り込んで十年間|磨《みが》きつづけて漆《うるし》の光沢を作ったといって、戸棚から大切そうに取り出した。
 自家用の自動車を老人が鼻の脂で十年間磨いたら、さぞ雅致あるハドソンが現れるだろうと思われる。自動車こそは女性のパラソルの流行とその形の変化と同じく一年で変形する。古きを捨てて新らしきを知るものである。だが、その日進月歩文明開化の尖端風景の世の中を、十幾年以前の優秀車が主人の鼻の脂で輝きつついとも珍型となって大都会を走る事は、また新鋭的な雅味をもたらすであろうと思う。
 だがまだまだ、新鋭的尖端が漸《ようや》く旧《ふる》き古色と雅味を追い出そうとする折から、新日本の新尖端的滋味雅趣を求める事は無理だろう。
 しかし、巴里《パリ》なぞにはこの新らしき雅味が至る処に存在する。それが巴里の羨やましい処で仏像を洗い落したような尖端は発祥しない。それが芸術家をして巴里の生活を憧《あこ》がれしめる重大な原因の一つでもあるといっていいかも知れない。

 この間、オールスチールの尖端的スピードを有する大阪の近郊電車へ乗って見た。光沢あるエナメル塗りの内部は相当の近代であった。するとどやどやと嵐山《あらしやま》見物の一群が押よせ、さアずっとお通りなはれ、奥は千畳敷や、中銭《なかせん》はいらんといいながら、その中でも一番厚かましい老婆が私と私の隣との間の甚だ少しの隙間《すきま》をねらって、尻をもって押しあけようと試みた。それで尖端電車は忽《たちま》ち垢だらけとなってしまった。
 私の近くにモボが淋しく窓外を眺めていた。これはこの近代電車に調和していた。すると両袖の長い女給が走って来た。えらい待たしたやろ、すまなんだといってその隣へ腰をおろした。暫《しばら》くするとモボは紙包みの中から一束の古ぼけた写真を取り出して女に見せるのだ。「あれが俺《お》れの親父《おやじ》でこれがお母さんや」といって両親を紹介している。
 私はその両親の肖像に同情して見た。何しろ写真の事だから「これ息子、阿呆《あほ》な事するな」といいたそうだが声が出ない。父と母は完全に女給への恋のカクテルとなり切っているのであった。それにしても古ぼけたるカクテルではある。大阪の尖端にはこんな埃はいくらでもある。

   緑蔭随筆

 一本の草、一枚の葉の弱々しいあの軟《やわら》かなものが、夏になると、この地上を完全に蔽《おお》いつくしてしまう。そしてどんな嵐が来ても、梅雨の湿りが幾日続いても、破れもしなければ色が剥《は》げ落ちたということもない。
 もしも、人間の手工品ででもあったなら、百貨店やカフェーの紙の桜であるならば、全く一日も嵐の中には立っていられまい。
 緑の黒髪という。その人間の毛髪も頭を蔽うところの草木とも思える。私は毛髪の美しさと同時にその不思議な丈夫さに驚いている。
 草木の葉は刈取るとすぐ萎《しな》びてしまうが毛髪は萎びない。
 人間の毛髪を刈取ったものを私は寺の本堂や小さな祠《ほこら》の壁や柱に、亥《い》の年の女とか何とか記されて吊《つ》り下げられてあるのを見る。多少の埃《ほこり》が積《つも》っているので汚いけれども、よく掃除をして見たら相当の光沢を生前の如く現すだろうと思う。
 真夏の昼、蝉《せみ》の声を樹蔭に聞きながら本堂の縁側に憩いつつ内陣の暗闇《くらやみ》を覗《のぞ》くと、この女の黒髪が埃をかぶってその幾束かが本尊の横手の柱から垂《た》れ下っているのを見るとき、いとも冷たい風が私の顔を撫《な》で、私の汗は忽《たちま》ちにして引下るであろうところの妖気《ようき》を感じるのである。私はこの不気味を夏の緑蔭に味わうのが好きである。そこには女一代の古びたるフィルムの長尺物《ながじゃくもの》を感じることさえ出来る。
 さて、近代的交通機関とその宣伝の行届く限りの近郊風景は悉《ことごと》くこの黒髪の妖気と閑寂なる本堂の埃と暗闇の情景を征服して、寺といえども信貴山《しぎさん》となり生駒《いこま》となり六甲《ろっこう》となり、電燈とケーブルと広告と三味線と、ニッカボッカとルナパークと運動会の酒乱と女給と芸妓《げいぎ》と温泉の交響楽を現しつつある。
 妖気も緑葉も、珍鳥も、神様も、人間の目算にかかっては堪《た》まらない。彼らは一つ向うの山々へ逃げ込んでしまった。もっと交通が発達して全日本が新開的遊園地と化けてしまう日が来たら、神様も幽霊も昆虫も草木も、皆|悉《ことごと》く昇天するかも知れない。

 さて、私もまた、自然を荒すであろうところのデイゼルエンジンの小刻みの近代的な震動と、その事務長であったところの絵の好きなI氏の誘惑に乗って去年の夏、南紀の海と山を味わって見た。
 汽車も電車もない上に潮岬《しおのみさき》の難所を持った南紀の風景は、まだ生駒や六甲ではなかった。妖気と黒髪が持つであろうところの不思議を十分にまだ備えていた。しかし田辺《たなべ》の町へほんのちょっと降りて見て、直《すぐ》に私はその横町に道頓堀と同じレコードの伴奏によって赤玉を偲《しの》ばしめるであろうところの女給の横顔を認めることが出来た。頼もしくもまた悲しくもあった。
 しかしながら更に南進して黒潮を乗切ると、もう人間の力は幽霊と妖気に降服してしまっていた。大洋と濃緑《こみどり》の山と草木の重々しき重なりの連続であり、殊《こと》に九里峡《くりきょう》と瀞八丁《どろはっちょう》の両岸に生《お》い茂る草木こそは、なるほど人間と恋愛するかも知れないところの柳が今なお多く存在しているらしく、秋成《あきなり》の物語りは本当にあった事件の一つにちがいないと思わせた。
 私が瀞八丁を尋ねた時は梅雨中のある猛烈な風雨の日だった。一丈あまりの出水でプロペラー船が出ないかも知れないとさえいわれた。従って瀞らしい風景は見られなかったが、とても濃緑の世界と陰鬱と物凄《ものすご》い水の力を眺めることが出来た。というと私も大変強そうだが内心もう船が出なければ幸いだろうと考えて見たりした。ところが、あるお蔭《かげ》をもって、船が出るというのだ。猛雨と激流と深い山々と岩壁と雲の去来の中を走る船は竜宮《りゅうぐう》行きの乗合《のりあい》の如く、全くあたりの草木の奇《く》しき形相と水だらけの世界は私に海底の心を起さしめた。ある旗亭《きてい》でめしを食いつつ見おろした。嵐の瀞の光景は白い波と泥だらけの八丁だった。
 中学時代に、私はこの十津川《とつがわ》の九里峡を艪《ろ》による船で下ったことがあった。それは晴れた八月だった。途中で夕立に会ったり、船で弁当をたべたり、話したり写生したりしつつゆるゆると下ったことを覚えている。今はプロペラーの音響によって妻に話しかけても知らぬ顔をしている。妻が何かいっても私には聞えない。友人も口を動かしているらしいがその意思は一切通じない。いい景色だということさえもお互に語り合うことの出来ない二、三時間は、昔の五、六時間の下り船よりも私に歯痒《はがゆ》さと退屈を感ぜしめた。
 しかしながら、この不精者をここまで引ずって来て自然の妖気に触れしめたことは即ちデイゼルでありプロペラーでもある訳だ。その代り妖気も神様ももうそろそろ引越しの用意に御多忙のことであろうと思う。

   舞台の顔見物

 高座へ上がる落語家、講談師、新内語りの名人達の顔を見るに、多くは老年であり何か油で煮つめたような、あるいは揉み潰したような、奇怪にして異様な有様を呈しているものが多いようである。しかし決してその奇怪さや異様さが、悪人とかうす気味悪いものであるとは思えない。奇怪ながらも渋味ゆたかに掬す[#「掬す」は底本では「掬う」]べきものがあり、その芸とともに渾然として心の隅から好感が湧き上がってくる。
 あまり若い好男子を高座に見ると、かえって例えば若い男のある何物かを発見した如き、なまいやらしさを感じさせられ、彼が何を上手に喋ったところで皆不愉快の種となってしまうこともある。
 何事によらず一代の名人巨匠となると女子供にはちょっと了解致し難い人間のぬしとなり切ってしまい、狐でいえば金毛九尾となって、狐の中の超正一位のぬしとなる。
 上野の森を大観という画人が大ぜいの部下に護られて歩いていると、それは絵描きのぬしとも見えたりすることがある。
 名優の素顔も、手にとってじっと眺めてみたら、きっとがっかりする位の奇怪さを備えたものだろうと思う。ありあまりたる鼻の高さや頤の長さ等、写真のクローズアップの如く顔全体異状だらけだと思う。その位の大げさな異状を舞台へかけて遠望すれば、ちょうどはっきりとまとまったところの強き美しさにまで縮むものである。そしてその不思議な構成の強さによって心の動きもはっきりと放散出来る次第だ。
 だから座敷で見ての好男子を舞台へ立たせたら縮まってしまって、何もかも見えないところのいじけたる存在となってしまうだろう。
 文楽座の人形の顔を座敷で手にとって見ると、案外小さいものである。野球のボールの二、三倍位のものだろう。ところがその顔の造作が素晴らしく大げさにいかめしく出来上がっているところへ、はなはだ大まかなその使い方によって、あの人形が広い舞台一杯にのさばり出して大きな印象をわれわれに与える。
 ちょうど油絵の仕組みと同じく、常に遠く眺めてよき効果あることを考えつつ作って行くのに似ている。近くで見てちょうどよろしき仕上げでは壁面へ収まって[#「収まって」は底本では「収まってしまう」]から、色も調子も飛んでしまって存在が弱い。
 元来日本の油絵は奥行きと調子がなく、味わいはあるがうすっぺらで展覧会場で引き立たず、色ざめてしまい小細工となっていじけがちであることは、日本人が常に畳の上で色紙を描き炬燵によって美人の顔ばかりを鑑賞していた遺風によるものであるかも知れない。総じて西洋ふうの芸術は舞台的だといっていいと思う。
 相当の役者にして、どうもも一つ素晴らしく大成しないものがある。私はそれらの顔に、すなわち持って生まれた素顔の構成上、致命的な鼻の低さ小ささ等を発見して、気の毒に思うことがある。しか
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