条派の絵画も近代の展覧会場では全くうすぼけた存在に過ぎないけれども、一たび、うす暗い床の間に懸《かか》ると、忽《たちま》ち滝は雲煙の間を落ちて行く。
かように絵画と生活とがぴったりと出合っていた事は、全く結構な状態だったと私は今になって考える。ところが現代では安い文化住宅のみならず、豪奢《ごうしゃ》な別荘の洋室においてさえも、絵画らしいものは一切見当らない事がある。時に洋行土産と称するいとも俗悪なライオンの刺繍《ししゅう》が目をむいていたりする。春が来ても、夏が去っても、秋が来ても、全くの無関係においてライオンは相場師の形相において家族と来客を睨《にら》んでいる。
子供の成長してからの追憶は、常にその汚ないライオンであるだろう。
あるいは時たま、義理で買いましたと嘆息しながら掛けてある一枚の油絵があったとしても、それが多分その主人の一代は変色しつつも懸ったままであろうかも知れない。そんな絵に限って、額は左右いずれかへ傾いて歪《ゆが》んでいたりする。油絵の額が歪んでいることは大変私の気にかかる。私は他人の家の額が歪んでいる時、それが誰の絵であろうとも一応は正しき位置にまで戻しておく。
季節によって床の間が変化する如く季節による年中行事があることは、その行事によって季節を想《おも》わしめ、その季節が行事を想わせるところに、太陽の動きと、天地の変化と、人間の生活との間に、甚だ親密なる交際を構成するものである。
陽の下で笑う
男ばかりの集まった時の雑談は女に聞かせ難いことがあり、大人ばかりの雑談は子供に内密で有りがちである。話題はつい人生の裏道へ行きたがる。
私が子供であった時の記憶によっても、つい何心なく大人の部屋へ走り込んでみると、急に皆の者が慌てて話を中絶して白ばくれてしまったということはしばしばある。そしてことごとくの眼が私を睨んで、うるさいちんぴら、早く寝てしまえといったふうのことを語る。子供ながらも何のことだかわからないが、その眼の意味と、その場の空白の不愉快は直ちに了解が出来る。そしてその内密の世界の暗い圧迫さえも私は感じることが出来た。
しかしながらかように子供を避ける集団はまだ心につつしみを持つ行儀のよい方だが、もすこし下卑てくると、決して子供のために話題を転換することがない。彼らはその子供にさえもわかるように、親切に説明してくれたりさえもする。
私の通っていた小学校などは花柳界に近かった関係上、女生徒は殆ど小さい大人ぐらい艶めかしかった。そして彼女らは家庭教育によって水あげという意味さえ了解していた。
要するに子供の世界と、子供のためにという心がけを、一切大人は持っていてくれなかったものだ。子供すなわち大人でしたがって昔の子供は早くから暗い影を持っていた。子供と妻と亭主と打ち揃って往来を散歩することはもっとも恥ずべき所業であったことは、現代から見ると大よそ嘘の如き話である。
昔の日本の大人は早く童心を失ってしまい、子供も早く童心を卒業しようとした。早く内密の世界へ、大人らしく暗く世帯じみた世界へばかり志願していたように見える。
猫を私は愛するが、彼は食べて寝て起きて然る後私の手先の運動に対してふざけて遊ぶ。私はその間、猫とともに笑っていることが出来る。ところがある時期がくると手を動かしてやっても手毬を見せても鬱陶しい顔をして見向きもせず、常に屋根に志してうろうろと出て叫び、四、五日も姿を隠しやがてうす汚れのした不良少年と化けて帰ってくる。その時がすがすと食事をした後、ようやく元の童心の猫へ立ち帰る。
私はそのつきもののした期間の猫の暗く悪らしき態度を嫌に思うが、しかし止むを得ない彼らの運命でもあるのだから致し方もない。でも猫は五、六日で元の童心へ立ち帰るが、人間は一旦暗くなると一生涯の連続となるが故に、大人も子供も皆この暗い内密の世界に包まれては、まったく明るい太陽も邪魔な電灯にしか過ぎない。猫にも人間にも、どうせ夜の暗さは間違いもなくやってくる。別段奨励しなくてもエロ一〇〇パーセントであなた方を待っています。
しかし自然は都合よく人間の大人の暗さを太陽が落ちて再び昇るまでの間の星の世界へ押し込んでしまっている。そして子供は夜も昼も朗らかな太陽の連続である。
私はなるべくどうかして子供に大人の暗さを早く覚えさせたくはない。そして大人もせめて太陽の下では一切を忘却して永久に童心を了解して、初めて子供の世界をより完全により明るく、愉快にしてやることが出来ると同時に大人は永久に若く輝かしいだろう。
子供とともに笑うためには邪心の必要がなく、子供と妻とともに登る山では暗さの必要がない。子供とともに味わう野球、子供とともに組み立てて遊ぶデルタ、そして活動写真に暗き邪心の必要はない。
子供ぐらい動くものに興味を持つものはない。球の運動、機関車の進行、軍艦の煙、等々。そして現代では新鮮にしてもっとも動くところの芸術は活動写真である。ところがどうだろう、この明るく新鮮な、動く芸術の世界は学生と子供からまったく閉鎖されているのだ。そして子供には内密で大人ばかりで雑談に耽り、猥談に遊んでいる。
私はキートン、チャップリン、ロイドあるいはコンクリンの喜劇あるいは実写ものニュースの類、山岳、飛行機については子供とともに朗らかに笑いあるいは説明し、ともに感心してみたりも出来る。だがあのスクリーン一杯のクローズアップの人相の悪い不愉快な男が髪を乱して刀を抜いて大殺人をやるところはいかにも自分の子供とともに悦んで見ているわけにはいかない。これこそ、心ある者は子供の世界から閉鎖するのが当然である。それにしてもチャップリンが持てる童心やキートンの童心に私はいつも感服している。
まったくせめて一つや二つの子供に対する完全な常設館と、映画があってもいいと思う。光と、運動と、科学を極端に生かすことの出来る新鮮な芸術を、子供から遠ざけていることはまったく残念で不幸なことだ。私は何にしても子供と、家族とともに太陽の下で朗らかに笑いたい。
[#地から1字上げ](「大阪朝日新聞」昭和五年八月)
国産玩具の自動車
玩具屋のショーウィンドに、かなり立派に見えるところの玩具の自動車が並べてあった。私の子供は、それを以前から買ってくれ買ってくれといっていたので、とうとう買ってやった。子供は大喜びで家へ帰ると、すぐさま箱からとり出してぜんまいをねじろうとすると、その肝心のぜんまいが駄目になっているのであった。早速よいのと取りかえにやったところが、今度はおよそ半日ばかりたつと車の心棒がぬけてしまった。そのぬけた個所をよく見るに、なるほどぬけるのが本当であると思える位ぞんざいな細工がしてあるのだった。ところで半日も経過しておまけに二度までも取りかえに行くことは随分おかしな話で、玩具屋も承知しまいと思ったからついそのままにしてしまった。子供の悦びは半日で消滅したわけだ。
こんなことは日本製の玩具には常にあることだから珍しくはないが、まったく子供のためにも可憐そうでならない。せっかく楽しんで持って帰って、さて遊ぼうとするとすぐさま用をなさなくなるのである。
ところで、この自動車はちょっと見たところは、さも西洋出来のもののように見せかけてあった。
近頃は玩具に限らず、何によらず舶来品の如く見せかけてあるというものが、めっきりと多くなったようだ。ついこの間までドイツ製で見かけたと思うそれと殆ど同じ形のものが、日本製となって現れていることがしばしばあるのだ。じっと見るとどこか間が抜けていて、すっきりとはしていないのである。買って帰るとぜんまいがきかなかったり、車がとれたり、走らなかったり、種々様々の故障が現れてくるのである。
私たちは何も好んで舶来品を欲しいとは思わないのであるけれども、舶来品には、この自動車に現われた如き情けない悲劇は起こらないからうれしいのである。どんなに安ものの玩具一つでさえも、そこに非常な親切と科学的な考えとが結びついているのである。
それとも一つ西洋出来の玩具のいいところは非常に写実的であることである。子供の頭は自分の好きであるところのものに関しては、大人などよりも随分写実的である。例えば東海道線を走る大型の機関車の形はどうであるとか、その機械の部分についても驚くべき知識をもっている。その他電車の形、その車輌の状態、あるいは飛行機についても同様である。
大人の多くはそんなものに興味を持たないために、うっかりとしている。日本の大人で機関車の形がちょっとでも描ける人があるかどうか。日本の玩具屋のおやじなどもその一人だ。
西洋の玩具はこの子供の要求をまったくうまく容れているのである。ちょっとした汽車の形において日本の玩具製造者が到底発見出来ないところの形の写実が、うまく簡単に行われているのである。それで子供がそれを欲しがるのも無理はないのである。
私たちが子供をつれて三越の玩具部とか、その他の玩具屋の前へ立った時に、どっさりと並べてあるところの日本製のブリキや、木造の汽車を見る。その車輪は申し合わせた如く、荷車か何かの如く、車体よりもはるかに外方へ出張っているのだ。そしてその形といえば到底、汽車のかすかな感じさえも出ていないので、少し頭の進んだ現代の子供は、決してそれを欲しいといわないのである。そしてガラスの戸棚の中に陳列されているところの舶来品の、さも汽車らしい汽車を、夢に見るほどの熱をもって欲しがるのである。子供は正直である。和製は安くもあるし、日本の貧乏のため国産奨励のため一つ不便と不愉快を忍んで、この嫌な木製の荷車のような汽車で辛抱しようとは、決して思ってくれないのだ。私は大人でもこの木製の方は嫌だと思う。
しかしながら近頃は日本品が舶来品に負けないということを知らしめるための展覧会が、時々大いに催される。
そんなことからでもあるのか、近頃は玩具に限らず雑貨にしろ、洋菓子にしろ何によらずその体裁と外形だけはさも舶来品らしく模造し出したので、ちょっと見たところはさもよいものであるらしく見えたりするのである。
なるほど展覧会というものは見たり眺めたりするだけのものだから、その見かけだけは劣らないようにと心がけが発達して来たものかも知れない。ついでに手に取って使ってみても劣らないものが出来ればいいのだが、そんな時代は次には来るものとしても、ともかく今の時代の子供はまだまだ不幸である。
ついでに日本で一般にケーキと呼ばれて広まっているところの菓子のまずさと、西洋菓子屋の店頭に並べてあるところのリボンのかかった美しい箱入の洋菓子の味なさかげんを嘆じてこの稿を終わる。
[#地から1字上げ](「美之国」昭和二年一月)
尖端の埃
古色を帯びたる活動写真、飛行機、自動車のエンジン、パラソルなどはあまり好ましくない。完全にいえばパラソルは一年限りのものであり、自動車は今年の型、活動写真のもつ最高の感激性は最初の封切りにおいてのみ存在する。どんなに面白い映画でも三回以上同じものを見る気はしない。やくざなものはただ一回で焼き捨てるべきだとさえ思わせる。
その点では、歌舞伎とか浄瑠璃《じょうるり》とか、西洋音楽においてでも、同じ狂言、同じ曲を幾度観賞しても、いいものは相当の興味がある。それは幾度見ても全く同じという事が絶対にあり得ないからだろうと思う。場所が変り、役者が変り、同じテナーでもその日の機嫌《きげん》があり、あらゆる微細な点では悉《ことごと》く常に同じではないだろう。ところが活動写真位完全に同じことを繰返すものはあるまい。それこそ、あの辺で松の葉が風で動くといえばいつ見ても必ず動くし、波の数とその波の寄せ方から、庭の小石の数に至るまで完全に同じ事だし、勿論《もちろん》役者は変らないし、一挙一動は波の数と同じく同じ事を繰り返す。そこに無限の退屈は生れてくる。
要するに、科学的な近代芸術は映画、自動車の美しさと同じく、いくらでも作って早く見て早く捨てる処に、尖端
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