笠山《みかさやま》で眺めたと同じその明月が憐《あわ》れにも電光に色を失って気の毒にも誰れ一人見るものなく、四角な家と家との間に引懸《ひっかか》っているのだ。私はあれは天の金ボタンかとさえ思って見た。だが日本の仲秋の月でさえも、今に天の定紋《じょうもん》となってころがる時が来るだろう。

 甘酒とあめ湯は旧日本の珈琲《コーヒー》でありココアでもあったが、今は奈良公園の夏の夜の散歩において、猿沢池《さるさわのいけ》の附近ではまだ飲む事が出来る位のもので、大体都会ではコールコーヒーとアイスクリームだ。
 さてあめ湯とコーヒーと、どちらがうまいかを考えて見るに、どうもコーヒーの方がうまいとはいえない。だがあめ湯が飲みたいといえば女学生でさえ笑って、理由も何も聞いてはくれないであろう。
 先ず横町のカフェーの珈琲というものは大体において何かの煎じ汁へ砂糖を入れただけのものの如く、でもそれを飲む事が人間の運命となりつつあるようである。田舎の宿屋へ到着した時、多少ハイカラな構えの家では先ず第一に珈琲糖をうやうやしく捧《ささ》げてくる。褐色《かっしょく》の粉末が湯の底に沈んでいる。
 私はやむをえず近頃は、日本のお茶という言葉を使って遠慮なく註文する事にしている。
 私は暑中でも氷やアイスクリームを食べ、冷たいコーヒーを飲む事を好まない。私は汗を忍耐しながらも熱い珈琲を、熱い茶を飲む、かくして汗を以て汗を洗う。唐突に氷を以て、冷水のタオルを以て汗を引込める策略は、汗を変じて重油と化するおそれがある。
 暑い日の海水浴は水の美しき誘惑には敵しがたいけれど、そのあとの皮膚の感触位|嫌《いや》なものはない。私は真夏でも熱い茶と熱い珈琲と温浴を愛する。汗のあとの湯上りの浴衣《ゆかた》の触覚にこそ夏の幸福は潜んでいる。
 私は従って高山や高原への避暑を好まない。折角の夏の味を寒い処にいて袷《あわせ》でも朝夕は寒い位ですよといった自慢はして見たくない。
 時に雨つづきの、もう一段と夏になり切れずにすむ夏があるものだが、私は何か天変的な恐怖をさえ感じる。
 雑誌社の往復はがきはしばしば貴下の新案避暑法はといった事を註文してくる。
 私は家族の者を海へ泳ぎに出しておき、一人画室のソファでのうのうと寝ころびながら、萎《しな》びた朝顔を眺めて見たり、仕事に夢中になっていたりさせてもらう方が、私にとっては幸福な避暑法だといっておく。
 芸術と金といえば大変仲の悪いものの如く聞こえるが、その愛するという心の動き方については殆んど同じ三昧境《さんまいきょう》を得ているある老人があった。その老人は金と女の道楽といってもむしろ性慾の道楽という方が近いかも知れなかった。金と性慾、何んと下卑《げび》たものではあるが、しかし彼は常に暗い旧家らしい奥座敷の籐《とう》むしろの上に机を据えて、毎日朝のうちは金の勘定をする事にきめていた。黒光りする用箪笥《ようだんす》から幾束かの紙幣を取り出して、一枚一枚丁寧に焼鏝《やきごて》をあてて皺《しわ》を延ばして行くのであった。そして私にも金をかく愛しなはれと教訓してくれた。当時まだ子供あがりの私も、なるほどこれは費用のかからぬいい道楽だと思った事があったが、さてその教訓の通り家へ帰って延ばして見たくとも、その原料がない事は甚だ遺憾な事であった。一時間の後には人手に渡るべき一枚の五円紙幣に電気アイロンをあてて見る気にはなれない。
 しかしその老人は全くの無慾の状態において、専念紙幣に焼鏝をあてていたが、彼はそれによって世を忘れ、時を忘れ、今日は九十何度という事も忘却する事が出来、あらゆる他の慾望を持たなかった。ただ夕刻になると皺の延びたる一枚によって、も一つの三昧境の陶酔を買いに行くのであった。芸術家の至上主義が昂《こう》じると生活が乱れやすいが、老人のこの主義は真《まこ》とに安全だから結構だと思って見たりした。甚だ合理化された避暑法だ。
 とにかく、私は夏を愛する。そして冷たい秋風と残暑による重油の汗の季節になると、私の胃腸はよくない変化を起していけない。

   太陽の贈物

 人間の行事もこと面倒だが、自然が行う行事もなかなか手数のかかる準備をやっている。新秋の行事はすでに初夏においてそのことごとくが整頓準備されている。夏の初めのころだった。私の画室のテーブルに一匹の蟷螂の子供が現れた。その子供はまだ五分の長さを持っていなかったのに、蟷螂としての条件はことごとく備えているのだ。私は虫眼鏡を取り出して覗いてみた。すると彼は頸を傾けて私を睨んだりする。しかしまだ羽根は生えていないが、その勇ましき姿は蟷螂の少年団を思わせた。
 私は彼を筆の穂さきへのせて、やがて来たるべき新秋のためにかどの叢の中へにがしてやった。ところが今それらが成人して朝顔の葉の上に、雑草の間に威張っている。
 冬の最中に春の草が地中に頭を揃え、真夏の問屋は冬帽を整え、秋の展覧会への主要な作品は二月のころに私の画室で組み立てられる。
 柿の実は青葉の懐に護られつつふくらんでいる。栗、メロン、いちじく、葡萄、その他新秋の百果は夏の青葉の陰に隠されつつ成人し熟して行く。それこそは次第に冬へ去って行く太陽が淋しき地上への贈物であるかも知れない。われわれはその中元御祝儀を遠慮なく頂戴して、そのお汁を充分に吸いましょう。
[#地から1字上げ](「大阪毎日新聞」昭和五月[#「五月」はママ])

   新秋雑想

 立秋という日が過ぎて、どれだけ私のパレットの色数に変化を来《きた》したか、それはまだはっきりとは現れない。ただ天地の間に何物かが一つ足りなくなって行く空白を、私の全身が感じるだけである。時に、甚だ冷たい風が心もち赤味を帯びた夕方の太陽の光に交って、木の下草の蔭へ吹きよせるだけである。すると、夏から用意されていた虫の子供が成人して、かすかなる音を立て初める位の変化を現す。私は深い秋より以上に、この新秋が来た天地の微《かす》かなる変化を愛する。
 だが、健康の人はこれに元気を回復し、やがて来るべき朝寒むへの用心のために脂肪を蓄積するであろう。しかし、われわれ骨人はその立秋の変化にあたりて下痢を催し、骨人は断然百パーセントの骨へ近づく。
 春の草は丈《た》け短く、地にがっしりと腰を据えたるが多く、花は紅を基調とする。夏草は中等に伸び上り、花は白が基調である。秋の草は蔓《つる》を延ばし、ひょろひょろと細く、どこまでも高く、骨人や幽霊の類に配しては、全く気の毒なほどよく似合う背景となり、萩《はぎ》、桔梗《ききょう》、すすき、女郎花《おみなえし》の類は怪談の装幀《そうてい》によろしく、その色彩もうす紫が地となっている。
『雨月《うげつ》物語』の中のいずれの章であったか、俺《お》れが今度旅から帰るのは葛《くず》の葉の裏が白く風に翻《ひるがえ》るころだろうといった意味の文章があった。葛の葉の裏の白さは初秋の空白を示している。私の画室の近くは、今この葛の葉で全く蔽《おお》われている。
 去年の初秋のころ、私の家には「銀」と呼ぶ白猫がいた。その眼は金色で、尾は狐の如く太く地に曳《ひ》いていた。全身は綿の如く白く柔軟だった。毎朝、彼女は犬の如く私に従って松原を散歩した。銀は葛の葉のしげみへ隠れて私を待つのだ。白い尻尾《しっぽ》が左右に動いているのが見える。私が近づくと彼女は妖魔《ようま》の如く、音もなく高く飛び上って、また次のしげみへ隠れて私を待つ。
 銀はその後、勝手に一人、この叢《くさむら》へ遊びに行くようになったが、私がその名を呼んで手を叩《たた》くと、彼女はどこからともなく私の足もとへ直《すぐ》に帰って来た。ところが或日の夕方、私が如何に手を叩いても銀は現れないのだ。
 私はそれから、この葛の葉の蔭に白い紙片が落ちていても、銀かと思って立ち止まった事がしばしばであった。

 フランスなどの四季の変化は甚だ緩慢で、よほど注意していないと秋にいつなってしまったのかわからない事さえある。いつとはなく次第々々に冬が深くなって行く。
 ところが日本の四季の変化は急激で非常にはっきりしている。土用で鰻《うなぎ》を食べたかと思う間もなく立秋である。すると、早速にも入道雲の峰が崩れかかり、空の模様に異状を呈する。それはショーウィンドのガラス面へボンアミを平手で塗りつけた如く、かき乱されたる白雲が青空に塗りつけられる。
 するとやがてラジオは小笠原《おがさわら》島の南東に颱風《たいふう》が発生した事を報じる。重い湿度はわれわれの全身を包んで終日消散しない。驟雨《しゅうう》が時々やってくる。そしてどこからとも知れず、通り魔の如く冷たい風が訪れる。そして重たい汗を冷却して膏薬《こうやく》にまで転化させる。
 もう九月が近づくと天上の変化のみならず、地上のあらゆる場所から何物かが引去られて行く気配が見える。例えば道頓堀《どうとんぼり》に浮ぶ灯とボートの群が、真夏ではただ何か湧《わ》き立って見えるけれども、九月に入ると湧き立ち燃え上るような焔《ほのお》が日一日と消え去って行く。
 軒並みの浴衣の家族が並ぶ夕涼みがそろそろ引込んでしまう。

 以前、私の家では、かかる季節には必ず床の間の軸物が取かえられた。初秋に出る掛物は常に近松《ちかまつ》の自画自讃ときまっていた。それは鼠色の紙面へ淡墨《うすずみ》を以て団扇《うちわ》を持てる女の夕涼みの略図に俳句が添えてあった。「秋暑し秋また涼し秋の風……か、なるほどよういうたあるなあ」といって父は幾度か感心して読み返した。すると、その床の間の隅《すみ》の暗い影から朝すず虫が鳴き出すのだ。ほんとに千九百三十年の私の今の文化住宅から見ると全く以て平安なる日本的情景であった。
 盆が来ると寺の住職が大礼服によって出張する。線香の煙と、すず虫と、近松と、お経と木魚《もくぎょ》の音が新秋の私を教育してくれた。と同時に私は略画の情趣を知らぬ間に感得してしまった。何が私に絵心をつぎ込んだかと流行語で問うたなら、近松|門左衛門《もんざえもん》がそうさせたといえば足りるであろう。
 床の掛物が、学校教育よりも私自身により多く作用した事は恐るべきものである。

 床の間といえば、夏になると必ず出る滝の図があった。渡辺祥益といって天満《てんま》に住んでいた四条派末期の先生の作で、その画風は本格的で温柔そのものであった。図は箕面《みのお》の滝の夏景である。青い楓葉《ふうよう》につつまれたる白布の滝が静かに落ち、その周囲は雲煙を以てぼかされた。その座敷へ夏の太陽がさし込み、反射が暗い床の間を照して、その滝はすがすがしくも落ちていた。
 甚だ病弱だった私は裏に住む漢方医者に腹を撫《な》でてもらいながらも、その滝に見惚《みと》れた。その医者が、ちょっと竹に雀《すずめ》ぐらいの絵心はあった。私に[#「私に」は底本では「私は」]それぼん[#「ぼん」に傍点]これはどうやといいつつ懐紙へかわせみと水草を描いて見せた。私は一生懸命その墨画を真似《まね》たがどうも先生ほどの墨色は出なかった。
 箕面の滝が消え去ると近松の秋暑しである。その次が誰の作か忘れたが紅葉の図だった。
 私はどうも絵が習って見たくて堪《た》まらなくなってしまったので、父に無理をいってとうとう天満の祥益先生を訪れたものだった。私の最初の先生は、その箕面の滝と殆ど同じぐらいの温順さにおいて紅毛氈《あかもうせん》の上へ端然と坐して絵絹《えぎぬ》に向っていた。そして私のために一本の竹を描いて見せた。
 今、西洋人が日本画家の一本の筆先きから生れる竹石、雲煙の妙に驚くのと同じ種類の驚きで私は眺めていた。
 さて家に帰ってやって見るに一向竹にもならず、徒《いたず》らに紙屑《かみくず》を製造する。退屈はとうとう私に絵というものは思ったより憂鬱なものだと感じさせた。

 ともかく、季節によって変化する床の間風景は子供である私の心を刺した。全く日本の床の間は色彩と自然と芸術をなし崩しに放散して、日本人の生活に重い役目を仕《つかまつ》っている。
 四
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